趣味
  無頼の映画評論家

序にかえて

 趣味は?と聞かれて映画鑑賞と答える人は多い.私もその一人である.映画を見るのは大好きだが,同時に批評をすることも同じくらい好きである.自分の価値観に基づいたわがまま勝手な評論である.タイトルを“へそまがりな映画評論家”にしようかとも考えたが,結局無頼の映画評論家 にすることにした.無頼という呼び名は,和製ジェームズ・ディーン,懐かしい日活スターのトニーこと赤木圭一郎のヒット作品−拳銃無頼帖シリーズ−から頂戴した.赤木自身は決して無頼ではなく,彼とよく競演していた宍戸錠の方がよほど無頼であった.外国映画ではマカロニウエスタン時代のクリント・イーストウッドが無頼である.
 最近はビデオやDVDの普及でいろんな映画を好きなときに見ることができる.しかし,少し古い映画については面白い作品でもビデオショップの片隅におかれたままとなって,若い映画ファンの目に触れることなくショップから姿を消してしまうことが多い.また,テレビで放映されることはあってもビデオショップには並んでいない作品も多い.そこで,独断と偏見にみちた無頼の映画評論家がジャンルを超えて様々な作品を紹介する.

映画との出会い

就学以前〜小学校時代
 どんなきっかけで映画が好きになったのか,子供の頃の記憶をたどってみた.いつはじめて映画を見たか覚えていないが,就学前であったことは確かである.父親は映画が好きな人であった.母親も嫌いではなかったようだが,外出することがあまり好きではなかったので,父は母のかわりに私を連れて映画館に行ったようである.そのころに見たと思われる映画の中で,いくつかのシーンが鮮烈に私の記憶の中に残っている.海が割れる大スペクタクル,セシル・B・デミル監督,チャールトン・ヘストン主演の「十戒」のハイライトシーンもそのひとつである.
 映画館の客席が階段になっていた.当然場末の映画館ではなく,後に大阪ナンバの大劇場であったことを父から教えられた.それから,眉間に傷がある派手な着物姿のサムライの豪華絢爛な時代劇,ご存じ市川右太衛門主演の「旗本退屈男」である.これは後にテレビで上映された時なぜか懐かしく感じたが,実は小さい頃に映画館で見ていたのである.それから,昼は棺桶の中で眠り,十字架が苦手で鏡に映らないモンスター.「吸血鬼ドラキュラ」を見た夜,怖くて夜眠れずトイレに行けなかった.幼い子供にこんな映画を見せるとは何ともデリカシーのない父親である.
 長い間,灯台の中は暗くて怖いという印象を持っていた.木下恵介監督,佐田啓二,高峰秀子主演の名作「喜びも悲しみも幾年月」のせいである.父はジャンルに関係なく,いろんな映画をダボハゼのように見ていた.DNAがそうさせるのか,私も映画に関して基本的に雑食性である.ただし,グロテスクなシーンがあるホラーやSF,残酷な戦争物は苦手である.「おまえは阪妻(阪東妻三郎,戦前からの大スターで田村正和の親父さん)の映画を見て泣いていたぞ」と父がよく私をからかっていた.訳もわからないのに泣くはずはないと本人は思っているが,ついぞどの映画か聞くことができなかった.
 時代劇の撮影現場を何度か見たことがある.はっきり覚えていないが,京都の亀岡あたり,大川橋蔵主演の娯楽大作,「新吾十番勝負」ではないだろうか.ポニーテール?のヘアスタイルの橋蔵が同じ道を何度も何度も繰り返して歩いていた.その時,道の両側に大きな板に銀紙のようなものを貼って,陽光を反射させているおじさんがたくさん座っていた.もうひとつ,しっかり歩けるようになったばかりの私を連れて,三船敏郎主演の「蜘蛛巣城」のロケを見に行ったようである.

中学校時代
 幸運なことに同級生に映画館の息子がいた.雰囲気は場末であったが,れっきとした東映の封切館である.このころになると時代劇はかなり廃れており,やくざ映画がはやりだしていた.若き日の高倉健主演の「網走番外地」などは無料で見せてもらった.昔の映画館は,たいていの場合通路の一番奥にトイレがあった.右側のトイレの横のドアを開けると友人の自宅に通じている.訪問を重ねるうちに切符切りのおじさん(表現が古い?)と顔見知りになり,フリーパスとなった.おかげで,何度か映画の無料で見ることができた.その友人を通じて当時の東映のスターの色紙を手に入れた.映画館のコネである.鶴田浩二,今は黄門様になってしまったが当時細面の二枚目であった里見浩太朗,松方弘樹などの色紙はあったのに高倉健のものはなかった.梅宮辰夫クラスはまだスターではなかった.その友人に誘われて,自前で梅田の映画館に行った.ショーン・コネリー主演の007「サンダーボール作戦」,洒脱で少し大人びた会話に顔を赤らめたものである.それをきっかけに映画館で洋画を見るようになった.
 当時は今のようにアメリカ映画一色ではなく,フランス映画,イタリア映画がたくさんあった.フランス映画は,言葉の響きから何をしゃべっていても女性を口説いているように聞こえた.イタリア映画は,ネオリアリズムの暗い映画,マストロヤンニ主演の意味不明の映画などが混在していた.面白いと感じないくせに粋がって見に行っていた.一番多く見たのはアラン・ドロンの映画である.「太陽がいっぱい」から「冒険者たち」を経て,「サムライ」,「仁義」,「さらば友よ」...人間とは思えない彫刻のように整った顔.ドロンはどんどんギャング役に染まっていった.それに感化されて,長刀の似合う「唐獅子牡丹」の健さんタイプのやくざになろうか,ピストルの似合うドロンのようなギャングになろうか?真剣に迷ったものである.

高校〜大学・大学院時代
 高校時代から大学時代にかけて,テレビで放映される洋画や邦画は見ていたが,新作映画を見る回数は減った.思い返してみると,1960年代の後半から1970年代にかけて,アメリカ映画が大きく様変わりしたことが原因ではないかと思う.私にとって面白い映画が少なくなってしまったのである.勧善懲悪をテーマにしたヒーロー物,心温まるヒューマンドラマ,ロマンチックコメディ,心躍る冒険映画がほとんど姿を消してしまった.画面を見ているだけで理解できる映画から,難解な訳のわからない,ざっくばらんに言えば“客に映画の意味を考えさせる失礼な映画”が多くなった.私自身の映画に対する好みの問題から,ついて行けなくなってしまったのである.このような傾向は「イージーライダー」の頃から見受けられた.「俺たちに明日はない」,「明日に向かって撃て」,「真夜中のカーボウイ」,私にとってはどれも名画ではなかった.ジョン・ウェイン好きの私は,「真夜中のカーボウイ」を久しぶりの西部劇と勘違いして見に行き,しまらないジョン・ボイドの偽カーボーイにがっかり.当時すでに頭角を現していたダスティン・ホフマンとともに“演技力”という面では感心したが...極めつけは「2001年宇宙の旅」,わざわざ大阪まで見に行ったのに大損をした気分である.この映画の評判はその後少しずつ高まり,“無頼の映画評論家”として2回ほど見た.やはり私の知力の範囲を超えており,“観客の知性と教養を試す”失礼な映画であった.いくら格式の高いレストランや料亭でも,まずいものはまずいのである.
 そんなモヤモヤを払拭してくれたのが,洋画では「スターウォーズ」,邦画では角川映画の「犬神家の一族」である.全く違うタイプであるが,どちらもすばらしいエンタテインメント映画である.前者は,SF映画にSFXとコンピュータグラフィックスが本格的に導入された画期的な作品である.後者は,日本映画独特の湿気が多いこってりとしたホラーサスペンス映画で,その後の横溝作品「悪魔の手鞠唄」,「獄門島」...のブームの先駆けとなった.

〜現在
 学会出張でアメリカに行くとき,2つの楽しみがある.ひとつは機内で放映される映画である.日本で未公開ながら掘り出し物の映画に出会えることがある.最近では「オーロラの彼方に」,「キューティブロンド」などは思わず引き込まれてしまった.その後日本で公開されたことはご存じの通りである.
 もう一つは,日本で手に入らないビデオ(最近はDVDになってしまったが)を探すことである.アメリカ中どこへ行ってもビデオ店に行かないことはない.今年は1953年公開の「宇宙戦争」のオリジナル版 を探したが,取り寄せになるということであきらめた.私の映画評論集“michiの映画サロン”に登場するので,興味のある方はぜひお読みいただきたい. 註:「宇宙戦争」はその後国内で販売された.
  おっさんモーターサイクリスト

オートバイとの出会い


 叔父の大型バイクに生まれて初めて乗せてもらった時の写真である.おそらく昭和31年頃であろう.その後通った小学校の前で撮影されている.カメラが昔の2眼レフなので,写真が正方形である.このバイクの車種は何だろうか.国産車?輸入車?もしご存じの方があれば教えて頂きたい.
 小学校4年生の時,少しへんぴな所に住んでいた同級生がスーパーカブで通学していた.小学生のバイク通学,今では信じられないようなことである.彼の家に遊びに行くとき,最寄りのバス停までバイクで迎えに来てくれた.そのうち乗り方を教わるようになった.もちろん親には内緒である.田舎なので無免許(当然!)で捕まる心配もなく,駐在さんは黙認していたようである.私は何とかヨタヨタと乗れるという状態であったが,友人は映画「大脱走」のスティーブ・マックィーン張りのテクニックで,逆ハン,側面走行をこなしていた.現在では立派な少年犯罪?であるが,当時はいたずらと見なされていた,と信じている.中学にはいると,その友人はすでに見事な腕前で自動車を乗り回していた.さすがに自動車の方は教えてもらわなかったが....ちなみに彼とは今も親友である.

愛車の紹介


 「バイクが好き」というのは,どうやら子供の時に道なき道や野山を駆けめぐった時の爽快感が忘れられないでいるためである.現在乗っているのはホンダのゼルビス.完成度の高いVツインで,ちょい乗りから高速走行までこなすオールランドプレイヤーのマシンである.大震災の1年後に購入したのでもうかなりのおばあさんになっており,少しメンテナンス費用がかさむようになった.しかし,もともと丈夫なバイクなのであと何年かは乗れそうである.この愛車ゼルビスの一番注意すべき敵は娘である.私の年齢を考えて危険と思っているのか,さかんにバイクをやめることをすすめる.週末によくやってくる“ご家庭でご不用のオートバイ,バイクは...”で売り飛ばされないようにいつも施錠している.いつか寿命が見えてきた時,こっそり新しいバイクに買い換えようと考えている.
 私自身が一番好きな走り方は,郊外の田園風景の中を風を感じながら60〜70kmのスピードでのクルージングである.最近なかなか遠出するチャンスがない.時間よりも気力,体力が衰退しているためである.週末一人で出かけて,行き当たりばったりで民宿に泊まりおいしいものを食べる.そんなことを夢見ている.

アメリカバイク事情

 アメリカのバイクといえばハーレーダビッドソン.もうすでに創立100年を越す老舗である.何年か前に創立100周年を祝う一大イベントが本拠地のミルウォーキーで開催され,全米からおびただしい数のバイクが集合した.これとは別に,ハーレーの研究所から,私の油圧テンショナによるボルト締付けの論文に関する問い合わせがあった.油圧テンショナはバイクに使うような小さなボルトには使用しないのであるが,どこを締め付けようと考えたのだろうか.
 アメリカの広い道路を走っているとよくホンダのバイクに出会う.Interstateとして売り出されていたゴールドウィングである.サイドカーに奥さんを乗せ,後ろに旅行用の荷物を入れた一輪車をつけて引っぱる,本当におしゃれである.一方ハーレーは,大柄で太身のおじさんが,革ジャンを着て爆音とともに一人で乗っている姿が似合う.高校生の時だと思うがピーター・フォンダ主演の「イージーライダー」を見た.彼のあだ名はキャプテン・アメリカ.LSDで儲けたお金を持って友人のデニス・ホッパーとともに大型改造バイクで旅に出る.アメリカンニューシネマの傑作である.車体に星条旗をあしらっているのに,保守的な南部で住民の反感を買う.ラスト近く,殺された友人の仇を討とうと立ち向かうピーター・フォンダのバイクが弾丸を受けて吹っ飛ぶ.かわいそうと同時に,もったいないと多くの少年が思ったことであろう.ちなみに途中で2人に合流する飲んだくれ弁護士は,今やアメリカ映画を代表する演技派の一人ジャック・ニコルソンである.

  michi の映画サロン
(c) all rights reserved  許可なく転載を禁止する

    

Menu
1:めぐりあい   2:旅愁   3:誰よりも誰よりも君を愛す
   番外編(その1):日本映画美男俳優論
4:宇宙戦争   5:招かざる客   6:座頭市物語   7:グランドホテル
   番外編:時代劇に思いを寄せて
8:ピクニック   9:妖星ゴラス
   番外編(その2):怪獣映画と私
10:犬神家の一族   11:静かなる男   12:忘れじの面影
13:ドラキュラの恐怖   14:舞踏会の手帖   15:旅路   16:赤いハンカチ
   ショートコメント:パールハーバー
   友人との私信より:ナベケンとアカデミー助演男優賞
   ショートコメント:“白い巨塔”雑感
   同窓会誌への投稿記事より:映画と私
17:あいつと私   18:白扇みだれ黒髪   19:禁断の惑星
20:地下室のメロディー   21:大砂塵    22:サムソンとデリラ
23:連合艦隊    24:恋人よ帰れ Lover Come Back
25:白銀は招くよ    26:婦系図    27:島の女   
to be continued

   



1: めぐりあい

 「めぐりあい」は,このモチーフで何度もハリウッドで映画化されており,数年前にもリメークされている.それを見た人もこのケーリー・グラント,デボラ・カー主演の作品をぜひ見ていただきたい.この映画はいわゆる”恋愛映画”というジャンルでは必ず取り上げられる名画です.“このパターン知っているわ”という人がいるかもしれませんが,実は「めぐりあい」のストーリーがオリジナルです.
 名うてのプレーボーイとクラブ歌手,それぞれ男女の問題を抱えた美男と美女が船の上で恋に落ち,エンパイアステートビルの上での再会を約束する.しかし運命のいたずらで・・・,という映画です.私は浜村淳氏のようには詳しく話はしませんが,とにかく主演の俳優が大変すばらしい.
 まず,主演男優のケーリー・グラント.彼の外見は,まさに漫画に登場するようなハンサムです.ハンサムで背が高く,ウイットに富んでいて,アメリカ人はみんなこうなのかと昔錯覚を起こさせた俳優の一人です.オードリー・ヘップバーンと組んだ「シャレード」ではかなり渋くなってしまいましたが,私はこの頃以前のグラントが好きです.アメリカ映画では,古き良き時代,皆がアメリカにあこがれた1950,60年代に,美男美女がドラマを織りなす“ロマンチックコメディ”というジャンルがありました.ケーリー・グラントはロック・ハドソンとならんでこの分野の第一人者でしょう.一方のロック・ハドソンは,糖度100%の甘い甘い二枚目です.ジーナ・ロロブリジーダと共演した「9月になれば」なんかは最高です.また女性では歌手として有名なドリス・ディが挙げられます.ただし,「めぐりあい」はコメディのセンスをふんだんに取り入れた恋愛映画です.ケーリー・グラントは,ヒッチコックの「北北西に進路を取れ」など多くの映画に主演したハリウッドの伝説的なビッグスターです.二枚目,美男子という表現ではなく,“ハンサム”という呼び方がぴったりの人です.日本にはこのようなタイプの俳優はいません.あえて挙げるならば,映画とテレビで山崎豊子原作の医学小説「白い巨塔」で財前教授を演じ,その後猟銃自殺した田宮二郎でしょう.とにかくスーツが似合い,立ち姿が美しい.かつての日本映画のB級名作「鞍馬天狗」で,五重の塔をバックにした嵐寛十郎の着流し姿のシルエットが美しかったように・・・.
つぎに主演女優のデボラ・カー.ひとことで言うなら知的な美人です.このタイプの人も最近見かけません.デボラ・カーの真骨頂は,禿頭の王様ユル・ブリンナーと共演した有名なミュージカル映画「王様と私」の家庭教師役でしょう.有名な”Shall we dance?”はその中で使われた音楽です.
 最後のクライマックスは,椅子にかけたデボラ・カーとケーリー・グラントの会話の場面です.もしこのシーンで涙が出なければ,“あなたの心はすさんでいる”とは決して言い過ぎではないでしょう.私事で恐縮ですが,家内は二度とこの映画を見ないと宣言しています.なぜか?明くる日涙で顔がはれあがってしまうからです.
 それでは映画好きのあなた,ぜひ恋愛映画の一つの原点をご覧下さい.

追伸
 この評論を書いてからかなり後に,この10数年前につくられたシャルル・ボアイエ,アイリーン・ダン主演の1939年度版の「めぐりあい」を観た.ストーリー展開はほとんど同じ,船が島に寄港し,そこに住む祖母を訪ね歌手テリーと心が通い合う.一緒にピアノを奏でうたを歌う,そこへ無情にも出航を知らせる汽笛.美男美女によるメロドラマ.同じ脚本で作られたようであるが,ケーリー・グラント,デボラ・カー版に比べて感動がやや薄い.モノクロ映画であることの他に,ケーリー・グラントの持つハリウッドNo.1の洒脱さがその理由である,と私は考えている.

2: 旅愁

 恋愛映画というジャンルは,1970,80年代には一時期下火になっていたように思います.それは,当時のアクションもの,SFもの,ホラーものなどの隆盛とまんざら無関係ではないでしょう.アクション映画,SF映画は最近でも相変わらず好調ですが,少し前のクリント・イーストウッド,メリル・ストリープの「マジソン郡の橋」のような,昔を彷彿させるゆったりとストーリーが展開する映画も少しずつ復活しているようです.
 さて今回紹介する映画は,恋愛映画の秀作「旅愁」です.原題がSeptember Affairs(9月の出来事)なのに,どうしてこんな風にうまく訳せるのか感心してしまいます.1950年作のアメリカ映画で,美しいイタリアの風景のもとでくりひろげられる大人の男女の恋の物語です.モノクロ映画ですが,それでもナポリ,カプリなど美しいイタリアの風景と主演女優の美しさが十分鑑賞できる作品です.
 さてストーリーです.一生懸命働いて事業を成功させたアメリカ人男性ジョセフ・コットン,アメリカを離れて長らくイタリアでピアノに打ち込んでいる女性ジョーン・フォーンティーンの二人が,アメリカへ向かう飛行機の中で出会うところから物語が始まります.ジョセフ・コットンは,仕事と家庭に疲れ,自分を見つめ直すために家族をおいて単身イタリアへ来ている.一方のジョーン・フォーンティーンは,初めてのアメリカでのリサイタルを成功させるために,希望に燃えて飛行機に乗っている.そんな二人の運命を変えたのが,ちょっとした飛行機の故障でした.臨時に着陸した空港での案内は20分後の出発.しかし,コットンはそんな放送を全く信じていません.「イタリアの20分は2時間だよ.」監督はこんなせりふを彼に言わせます.その間二人で観光しようじゃないかと話がまとまります.ジープのような車の後部座席に乗った二人のつかの間の楽しい旅.この間の景色が何とも美しい.レストランでフォーンティーンが,アメリカ兵のおいていったレコードの中から自分の好きな曲を選んでかけるシーン.観客に二人の先行きを想像させます.ところが空港へ帰ってくると,ちょうど飛行機は離陸したところでした.「イタリア人を甘く見ていたようだ」,コットンが今度はこんな粋なせりふをはきます.余談ですが,この手の恋愛映画にはささやかな法則があります.主人公と異なった考えを持つ人物が必ず現れますが,悪人はいません.フォーンティーンのピアノの先生,この人が非常にいい.それからコットン夫人,息子,皆善人ばかりです.この映画は,バックにイタリアのカンツォーネが流れ,全編ゆったりとストーリーが展開します.ラストシーンはどうなるのか.おそらく皆さんの想像通りでしょう.あとは映画を見てお楽しみ下さい.
 主演の二人について少し触れておきたいと思います.ジョセフ・コットン,この人を語るには映画史に残る名作「第三の男」を外すわけにはいきません.この映画をごらんになっていない方のために申し上げておきますが,コットンが第三の男ではありません.第三の男はコットンよりももっと名優(と私は思っている)であるオーソン・ウエルズです.コットンは第三の男ハリーの友人の通俗作家という設定です.ほかの作品としてはヒッチコックの「疑惑の影」,ここでは子どもの目から見たかたちで話が進みますが,なんともこわい人をうまく演じていました.
 つぎに主演女優のジョーン・フォーンティーンですが,細面の少し冷たい感じのする美人です.この人は,有名な「風とともに去りぬ」にメラニー役で出ていたオリビア・デ・ハビランドの実の姉です.二人はこの役を争いましたが,残念ながら妹に白羽の矢がたちました.妹はアカデミー賞をとり,その結果ハリウッドでも有名な仲の悪い姉妹となってしまいました.ハビランドが選ばれた理由は,フォーンティーンを使うと,美しすぎて主演のビビアン・リーが目立ちにくくなるからではないでしょうか.ハビランドはフォーンティーンより“普通の人”なのです.答えは当時のプロデューサーに聞くしかありません.それ以外には,ケーリー・グラントと共演したヒッチコッックの「断崖」.ヒッチコックはどうも美男美女がお好きのようです.ヒッチコッック自身が・・・だからとは少し考えすぎ?それと少し長くなりますが,「忘れじの面影」.これは文芸作品の香りがするすばらしい映画です.随分昔に紅白歌合戦の時間に教育テレビで放映されました.名うてのプレーボーイが,女性問題で相手から決闘を迫られて,執事から軽蔑されても,恥も外聞も捨てて逃げ出そうとするのですが,昔つきあってそして捨てた美しく純真な女性フォーンティーンから,「あなたがこの手紙を読む頃,私はこの世にはいないでしょう.・・・」と,楽しかった日々をつづった手紙と読み進むうちに,決闘に出向く決心をし,だまって約束の場所に向かって行くという話です.もう一度放映をと思っているのは私だけではないでしょう.
 それでは,イタリアの美しい風景と音楽をバックに,ゆったりと時間が流れる恋愛映画を,ワインでも飲みながらごらん下さい.

3: 誰よりも誰よりも君を愛す

 いうまでもなく,松尾和子の大ヒットムード歌謡曲を題材にした1961年の大映映画である.内容は愛すべきB級の純愛映画である.「B級映画とは何か」を定義するのは難しいが,ひとつの考え方は最初の10分でほぼ完全にストーリーが読めるという事ではないだろうか.ここで純愛を演ずるのは,もちろん本郷功次郎と叶順子である.ちなみに,親友の英語教師のミーガン氏によると,B級映画は「B class movie」ではなく,単に「B movie」というらしい.
 この映画は出演俳優がなかなかいい.まず本郷功次郎.怪獣映画にもよく出演しており,確か柔道ものもあったように思う.なかなかのハンサムな好青年(当時)である.特筆すべきは,珍しくぽっちゃりと丸い顔のハンサムという点だろう.叶順子,この人もたくさんの映画に主役級で出ているが,なぜか映画史にはほとんど残っていない.本郷功次郎もそういう俳優の一人である.B級映画の主演俳優の悲しい宿命だろう.二人の仲を裂くのが,本郷と同じテレビ局の重役の川崎敬三である.この人は,一時ワイドショーでよくテレビに出演していたし,さざえさんの「ますおさん」を演じた事もある.川崎敬三は甘いマスクの二枚目である.この映画の中ではドンファンを演じていたが,本当はまじめな人なのだろう.ところで彼の顔は誰かに似ている.そうそう,昔からのプロレスファンなら誰でも知っているハンサムな「人間風車」のビル・ロビンソンだ(こんな発想をする人は他にいない?).それから菅原謙次,私はこの人が好きである.なんといっても渋い.健サン(もちろん高倉健である)が一宿一飯の義理で殺す相手がこの人だったやくざ映画がある.健サンのドスの一太刀を受けた菅原は,その行為にやくざとしての理解を示して死んでいく.そんな役がぴったりの人だ.沢村貞子,この人はこの頃からすでにおばあさんである.北林谷栄よりはつらつとしていて,飯田蝶子ほどお人好しではなく,かといって浪速千栄子ほどは恐くはない,そんなおばあさんである.叶のおばさん役で,当然のことながらかたき役を演じている.高松英郎,この人も個性派俳優である.なんといってもぴんと背筋が伸びている.脇をがっちり固める役どころが得意であるが,われわれの世代にとっては,テレビで桜木健一主演の柔道映画でみせた必殺技「地獄車」の達人の印象が強い.最後にさいころ振りになる前の江波杏子.きりっとしていて,叶の友人のスチワーデスという役どころがぴったりであった.
 ストーリーは至って単純で,一行で書くと川崎敬三によって裂かれた二人の中が,紆余曲折の後に再びもとにもどるというものである.この映画で特筆すべき事は,当時の田舎(本郷の故郷の小諸)と東京の対比と,そこにある人々の生活であろう.テレビ局に勤める菅原が後輩の本郷らを家に招いて宴会を開く場面がある.彼の家は,立派とは言えないがゆったりした広さで,なかなかのごちそうでたくさんのビールが登場する.当時の人々の生活水準からするとかなり上位に属するのであろう.また,叶の着ているコート,腰をきゅっと絞ったもので,髪を染めて(主役であることを強調するためによく染めていた?)おしゃれをしている彼女によく似合っており,まさに都会の女そのものであった.実はこの映画,子どもの時に父親に連れられて見たような気がする.きれいな女性が都会の歩道を歩いており,そこには音楽(主題歌)が流れている.私の記憶の中の映画の場面は,残念ながら実際に見た映画の中では現れなかった(カットして短縮されているため?).しかしその女性が叶順子であったことは確信している.懐かしい叶順子さん,あなたは今どうされているのですか.

番外編 : 日本映画美男俳優論

 男性の見栄えがいいこと示す表現は様々である.二枚目,ハンサム,美男,それからかつては「白塗り」という表現もあった.それぞれ違ったニュアンスを持っている.ご異論もあろうかと思うが,実際の俳優を挙げて考えてみたい.
 まず長谷川一夫.この人は「美男」以外に表現の方法はないであろう.日本の映画史を飾る日本を代表する二枚目である.林長二郎,父親はよくそう呼んでいた.顔を刃物で切られる前の芸名であるが,私にとってはやはり長谷川一夫である.「男の花道」,「雪の丞変化」,「雪の渡り鳥」など,なかなか粋な作品も多い.「男の花道」は随分古い映画だが,いつでも呼ばれたときには参りますと言う約束を守って,長谷川の演じる“おやま”が世話になった医者のために無理難題を言う侍の座敷に上がり,その危機を救うという話である.この映画の長谷川一夫は本当に美しい.顔立ちは違うが,フランスのアラン・ドロン,アメリカのタイロン・パワーと比較されるべき人であろう.
 同じく時代劇で高田浩吉,この方はまだご健在のようである.歌舞伎の片岡秀太郎の奥さんであった元純愛映画専門女優兼歌手の高田美和のお父さんである.このひとは「白塗り」で,日本の歌う映画スター第一号である.「大江戸出世小唄」が彼の出世歌であっただろうか.30年くらい前までは艶のある声で,よくナツメロ番組に出演していた.時代劇の中で,粋な男が三味線を持って色町を流すというシーンがあるが,元祖はこの人であろう.
 また,高田浩吉の弟子に鶴田浩二がいる.彼は我が父と同い年であったかと思うが,すでに亡くなっており,現在娘の鶴田さやかが芸能界にいる.若い頃時代劇に出演していた鶴田浩二は,「白塗り」でのっぺりとして本当に美しい.歌も得意で,「赤と黒のブルース」,「街のサンドイッチマン」,「好きだった」など都会の哀愁を歌ったものが多い.股旅ものでは,師匠とは違う艶のある声で歌う「弥太郎笠」が実にいい.彼もまさしく歌う映画スターであった.あの美空ひばりとは兄妹のような関係であったらしい.そののち,東映のやくざ映画のドル箱スターになるが,このころになると額のしわに渋みが出て,片方の肩を落として歩く姿にもはや美男というイメージではなかった.やくざを題材にした「傷だらけの人生」という大ヒット曲があったが,晩年は子どもの認知問題が浮上し,まさに歌の題名通りの人生であった.鶴田浩二は好きな俳優なのでついつい長くなってしまった.
 再び時代をさかのぼって,今度は洋風の二枚目をたどってみよう.まずは上原謙.言わずとしれた加山雄三のお父さんである.田中絹代との名コンビの悲恋映画「愛染かつら」を抜きにしてこの人は語れない.いわゆる典型的な細面痩身の都会派の美男である.外国の映画スターでいうと,「心の旅路」のちょび髭のロナルド・コールマンがイメージとして近い.少し時代を下ると,似た雰囲気を持った人に佐田啓二がいる.中井貴一,中井貴恵のお父さんである.この人の主演映画では,私はあの有名な主題歌が大ヒットした「喜びも悲しみも幾年月」を映画館で見ている.共演は確か高峰秀子だったと思う.ストーリーは灯台守の生活をリアルに追ったものであったが,当時の私には,灯台の中の暗さ(当然である)が恐かったことを記憶している.うちの母はなぜか佐田啓二は好きではないという.余談ながら,もし父親があのような美男であったら私の人生は変わっていただろうか,母が同じであればやはり同じ人生かもしれない.ところで,佐田啓二は外国の俳優では誰と対比させるのか.独断と偏見で「サイコ」,「渚にて」,「のっぽ物語」などで有名なアンソニー・パーキンスということにしておこう.
 再び時代劇に戻って,大川橋蔵.少し若い人にはテレビの「銭形平次」が懐かしいかもしれないが,私にはやはり「新吾十番勝負」の葵新吾である.将軍の娯楽院として生まれ,そのたぐい希なる容姿と剣の腕のために数奇な運命をたどるという,東映時代劇全盛時の作品である.大友柳太朗扮する父と長谷川裕見子扮する母に会いたくても会えない,何とも切なくじりじりする話である.敵役がまたよかった.月形龍之介の武田一真(だったかな?)は素晴らしかった.ちなみに橋蔵は,京都の撮影所で半年でも一年でも昼食に同じメニューを食べる人だったようである.別のメニューを紹介するとまたそれを一年というふうに.愛すべき二枚目であった.
 続いて市川雷蔵,この人はまさに夭折の美男俳優である.円月殺法の眠狂四郎こそ雷蔵の真骨頂であった.一夜を過ごすためにお堂で一緒になった女性に「抱いてしんぜようか」,こんなせりふを吐いてさまになるのは雷蔵,いや狂四郎ぐらいであろう.この人は文芸ものにも素晴らしい作品がある.「陸軍中野学校」というシリアスな作品もあるが,現代物は今一つのような気がする.これは橋蔵にもいえることで,カツラが似合うというより,カツラをつけていなければただの人という俳優かもしれない.私は子どもの頃に橋蔵の映画のロケを見たことがある.たしか父に連れられて行った京都の亀岡でのロケで,両側にリフレクタを置いた田舎の道をさっそうと橋蔵が歩くシーンであったと記憶している.おそらく「葵新吾」のロケであったのだろうが,そのあたりは定かではない.
 今回の最後は加山雄三で締めくくってみたい.いわずと知れた上原謙の息子で,お母さんは小桜葉子である.まさしく美男美女の子で,当然のこととして美男として生まれてきた.映画「男対男」の頃の加山は本当に“いい男”である.加山雄三にはこの表現がぴったりかもしれない.代表作となると,やはりあの青大将との名コンビで夢を与えてくれた愛すべきワンパターン映画の「若大将シリーズ」である.私は若大将は大ヒットした「エレキの若大将」のひとつ前の「海の若大将」から映画館で見ている.相手役の澄子さんは何人か変わったが,やはり星由里子がよかった.最近NHKの朝のドラマに出演しているのを見た.年はとっても顔立ちの良さは変わっていない.ドラマの中での亭主役は里見浩太郎であった.美空ひばりと一緒に映画に出ていた頃の彼は,随分細くて若殿の似合う二枚目であったが,いまや風格が出てテレビの代表的な時代劇役者になっている.話がそれてしまったが,加山を引き立たせるために,どうしてあれほど・・・の悪い田中邦衛を使う必要があるのかとずっと不思議に思っていた.いまとなっては,彼がいてこその若大将であったことを確信している.スポーツ万能,頭脳明晰の若大将だが,庶民のスポーツの野球はできないと聞いたことがある.本当でしょうか加山さん?

4: 宇宙戦争

 少年時代に胸をときめかせたあのH.G.ウエルズのあまりにも有名なSFである.ストーリーは至って単純で,地球人よりはるかに科学の進歩している宇宙人が自分たちのすみかを失い,新しい楽園を求めて地球にやって来る.皆さんがご存じの通り,どんな兵器も通じなかった宇宙人が,最後には地球の細菌に侵されて滅んでしまうというのが結末である.少年の頃に,漫画以外に胸をときめかせて読んだ数少ない小説で,1953年の作品であるからちょうど私が生まれた年に製作されている.主演はあの懐かしいジーン・バリー.少年の頃テレビで「バットマスターソン」,「バークにまかせろ(おまかせ?)」というドラマがあった.若キザを絵に描いたような俳優である.声優でおそらく最も有名なあの若山弦蔵を印象づけたのはジーン・バリーではないだろうか.生の声もなかなかいいが,やはりあの低音の日本語でしゃべっている若山弦蔵のジーン・バリーがいい.最近お年を召した「新エイモス・バーク」を見たが,あのキザな印象はそのままで面目躍如といったところである.共演のヒロインのアン・ロビンソンはよく知らないが,あの頃のアメリカの雰囲気を伝えてくれる女優さんである.
 この映画を見ていくつかのことを考えさせられた.まず時代背景は古き良きアメリカ.あのころの映画はほとんどそうであるが,黒人が全く出てこない.もちろんアメリカにたくさんいるであろう黄色人種も出てこないのである.黒人の本格的なスターとしては,やはりあのシドニー・ポアチエの登場を待たなければならない.また,製作された1953年というと,ちょうど冷戦の最中でそこへ宇宙からの侵略者があり,西も東も協力して立ち向かうという,願望とも皮肉ともとれるストーリー展開である.全世界が宇宙人に蹂躙されるが,最後に残っているのがアメリカというのもまた面白い.手詰まりになってとうとう禁断の兵器原爆を使うというのも時代背景を色濃く反映している.もう一点,最後に離ればなれになった二人はようやく教会で再会できるが,映画の中では何度か教会が登場し,また神に祈る場面がある.このころの多くのアメリカ人は,現在と違って毎週日曜日には必ず教会へ行っていたことが伺われる.そういえばヒロインのおじさんは神父であった.
 少し話がかたくなったが,あのハリウッドNo.1のキザなジーン・バリーが,眼鏡をかけただけで著名な博士を演じていることには笑ってしまう映画ファンも多いであろう.また,われわれが持っている宇宙人のイメージである「たこ」と「くらげ」をたし合わせたようなキャラクターが,主演の二人が隠れ家の中で敵に追いつめられた時にシルエットで登場するシーンが何とも心憎い.
 私はSFが大好きである.あのSF映画の新しい時代を作った「スターウォーズ」,「E.T.」...(ただし「2001年宇宙の旅」は除く)どれも素晴らしい.しかし,私はB級映画の愛好者である.この宇宙戦争のようにややB級映画のかおりのする作品に懐かしさを感じるのはどうしてだろうか.おそらくSF小説に心ときめかした少年時代にタイムスリップさせてくれるからであろう.こう書いてくると,最も好きなSF映画はということになるが,私は言下に同じウエルズの作品「タイムマシーン」と答えるだろう.このビデオは日本で発売されていないようである(その後発売された)が,'95にハワイで学会があったときに探し当てて大事に持っている.それからアン・フランシス,ウォルター・ビジョンの「禁断の惑星」,「月世界旅行」もいいなぁ.

5: 招かざる客

 この映画は多くの部門でアカデミー賞を獲得した名作,ハリウッドの歴史に燦然と輝く名男優スペンサー・トレーシーと名女優キャサリン・ヘップバーンの共演という以外に,黒人の名優シドニー・ポアチエの代表作という点で大きな意味がある.
 ストーリーは,白人の若い女性が一度結婚歴のあるインテリの黒人の博士と恋に落ちる.彼女は結婚を願望する.当然の事ながら人種差別の問題に本人達も悩み,また両方の家族も戸惑うが,結局めでたく結ばれるという一日の出来事を淡々と描いた名作である.
 映画は,二人を乗せた飛行機が女性の両親の家に近い空港に近づくところから始まる.
 空港に着くと,黒人と白人のカップルに周囲の人々は好奇の目を向ける.家に到着して,最初に母親のヘップバーンに会う.母は二人の関係に理解を示す.問題は父親のトレーシーである.人格者なのだがやはり割り切れない.また,ポアチエから連絡を受けた彼の両親は,相手の女性が白人とは夢にも思っていない.女性宅のディナーに招かれ,めでたいことだと急いで飛行機でやってくる.確か映画の原題は,たしか誰がディナーに来るでしょうであった.ポアチエの両親,女性の両親の4人の考え方がそれぞれ異なり,いろいろな組み合わせで話し合う.トレーシーの親友の神父も登場し,そこで繰り広げられる人間ドラマに,結果が想像できるにもかかわらず見るものを引きつける.登場人物が少なく,俳優の演技力に支えられて成立した映画である.映画の最後のスペンサー・トレーシーによるおそらく10分を超える大演説は心を打つ.私生活でトレーシーとヘップバーンは,お互いを一流の俳優として認めあいながら,友人以上の関係にあった.
 シドニー・ポアチエはハリウッド史上最初の黒人大物俳優ではないだろうか.今でこそアメリカ映画に頻繁に黒人が登場するが,このころはまだめずらしかった.この作品は古き良きアメリカを知る上でも一度は見ておきたい映画である.

追伸
 この映画もごく最近リメイクされた.原題はGuess Who(誰か考えてごらん).今回は男女が逆転している.黒人の娘が白人の男性を連れて帰ってくるのである.トレーシー,ヘップバーン,ポアチエ版は典型的な完全な名作であるが,こちらは現代風にかなりコメディー風の味付けとなっている.

6: 座頭市物語

 平成9年になくなった勝新太郎,愛称勝新の代表作である.この人は,市川雷蔵と並ぶ大映の若き二枚目俳優として売り出したが,雷蔵の方が先にスターとなり少し出遅れた感があった.それを払拭したのがこの「座頭市シリーズ」,田宮二郎と組んだ「悪名シリーズ」,名優田村高廣が脇を固める「兵隊やくざシリーズ」である.若い頃の勝新は,ハンサムであったが雷蔵のように細面ではなく,このような汚れ役がぴったりであった.奥さんは現在もテレビのバラエティ番組で活躍中の中村玉緒である.玉緒の兄さんが人間国宝の雁治郎である.私は,玉緒は小学校6年生の時に地元の久安寺で映画ロケがあった際に実物を見ている.また雁治郎(当時扇雀)は学生時代京都へ遊びに行った折に,お茶屋の前で偶然出会った.二人とも非常にあか抜けした人という印象が強い.
 さて映画の内容であるが,これはシリーズの第1作である.ストーリーは,居合いの名人座頭の市がやくざの抗争に巻き込まれ,尊敬していた剣客とはからずも対決することになり,それを倒してやるせない気持ちで再び旅に出るというものである.もう少し詳しく書くと,あの有名なやくざ抗争である天保水滸伝に座頭市を絡めた話となっている.飯岡助五郎の一家に草鞋をぬいだ市は,魚釣りに出かけた折に助五郎のライバル笹川繁蔵の用心棒平手造酒と知り合う.二人は互いの心に通い会うものを感じるが,観客にとっては二人の行く末が想像できるだけになんともせつない.市は平手を尊敬している.平手と酒を酌み交わし,そののち市が平手の腰に掴まり按摩する場面があるが,ここまで来ると観客の息苦しさは頂点に達する.この平手造酒を演じたのが,少し前にくも膜下出血でなくなった天知茂である.この人は日本でもっともニヒルな俳優の一人である.私はこの人が好きである.テレビドラマの「非情のライセンス」は毎週かかさず見ていたし,主題歌の「昭和ブルース」は,ブルーベルシンガーズというグループが歌ったものよりもドスがきいていてずっと印象的であった.すなわち,この映画は天知茂の平手造酒があってはじめて良い作品になり得たと言える.天知茂以外に平手造酒を演じることのできる役者は平幹二朗ぐらいではないだろうか.また,四谷怪談の決定版がこの天知茂主演の「東海道四谷怪談」であることは,映画評論家の意見が一致するところである.
 映画のクライマックスはなんといっても市と平手の対決である.その決戦は小川にかかった小さな橋の上で繰り広げられる.勝負に勝った市が.平手が倒れないように抱えてそっと寝かせ,嗚咽を漏らすところは涙を誘う.市の居合いだけが売り物ではないヒューマンな映画である.

7: グランドホテル

 「グランドホテル」は,私ごとき若輩が評論するような映画ではなく,すでに映画史上評価が固まっている名作である.「グランドホテル形式」と呼ばれるように,この作品は,映画に新しいパターンを作り出した点で歴史に名を残している.限られた空間を共有している様々な人物のドラマが同時に進行するという,現在でもしばしば用いられている手法の元祖となった映画である.
 主要な登場人物は5人で,ベルリンの一流ホテル「グランドホテル」で起こった2日間の話である.落ち目のバレリーナのグレタ・ガルボ,貴族のなれの果ての盗人ジョン・バリモア,若き日のジョン・クロフォード,さらに経営に苦しむ実業家とその従業員で病気で死を待つ男が織りなす人間ドラマである.ホテルには毎日様々な人が訪れ,また去っていく.豪華なホテルであっても隣人が誰かはお互いに知らない.様々な事件が起きても,ホテルはまたいつものように客を迎えて送り出す.現在の生活にも通じる虚無感が通常低音として流れている.そういえば,映画の中では悲劇が起きるまではほとんど絶えずバックに何らかの音楽が流れていた.
 グレタ・ガルボ,この人は伝説女優の元祖である.スウェーデンに生まれた点ではイングリッド・バーグマンと同じである.モナコ王妃になったグレース・ケリーがクールビューティなら,この人はさしずめコールドビューティかもしれない.36才で引退して,その後は人前から姿を消している.日本には,同じような隠遁生活を送っている原節子がいる.小津安二郎の作品にはかかせない日本の代表的な美人女優である.たしか鎌倉にお住いと聞くが,そのような生活が今の日本で可能なのだろうか.それからジョン・バリモア.落ちぶれても貴族の洗練された雰囲気を失わない伊達男を見事に演じていた.さらにジョン・クロフォード.私は,この人を見るとスターリング・ヘイドンと共演し,主題歌のジャニーギターが懐かしいB級西部劇「大砂塵」を思い出す.あの頃はもうすでに大姉御の風格であったが,グランドホテルではキャリアウーマン役で古いタイプのアメリカ美人を好演していた.
 映画の教科書というのがこの映画の評価としてもっとも適当であろう.

番外編 : 時代劇に思いを寄せて

 日本の時代劇は,よくアメリカの西部劇と比較される.ともに根底に勧善懲悪の精神があるからであろうか.しかし,一般大衆とのつながりを考えてみれば全く異質のものであることがわかる.つまり,日本の時代劇の方がはるかに庶民とのつながりが強いと言える.アメリカでは懐かしい「ローハイド」,「ララミー牧場」や「ボナンザ」は別として,新規にテレビ用の西部劇はほとんど製作されていないようである.その点日本では,数が減ったとはいえテレビ時代劇は相変わらず健在である.
 最近では本格的な時代劇映画はほとんど製作されなくなったが,少なくとも昭和40年頃までは,時代劇は映画の重要なジャンルであった.時代劇と西部劇の違い,それは日米の子供達がその主人公のまねをするかどうかではっきり現れている.少なくとも我々の世代は,誰でも腰に刀(とおぼしき木の枝であったこともある)をさして,遊んだ記憶がある.これに対してアメリカの子供が集団で西部劇ごっこをしていたという話は余り聞かない.昭和30年代は日本中どこにいっても赤胴鈴之助や白馬童子や旗本退屈男がいた.私も祖母に赤胴鈴之助の胴を買ってもらった記憶がある.もし今持っておれば,「開運何でも鑑定団」に持ち込むところである.白馬童子は,あの山城新伍の「風小僧」に続くテレビ時代劇の主演作である.少し小学校の高学年になると,旗本退屈男の早乙女主之介の「直参旗本・・・天下御免のむこう傷・・・諸刃流青眼くずし地獄のみやげに・・・等々(漢字は違っているでしょう)」という口上を覚えてチャンバラをしていた.
 ところで,チャンバラごっこに貢献した最後の時代劇は何だろう.独断と偏見で市川雷蔵の「眠狂四郎の円月殺法」だ.この映画がチャンバラごっこの終焉であったように思う.刀で円弧を描く例の必殺の剣法である.並の武芸者は,刀が一回転するまでに我慢できなくなって狂四郎に切りかかって倒される.しかし,名だたる剣豪は一回では切り込んでこない.狂四郎の魔剣に耐えるのだ.刀の回転が進むにしたがって,見る側に何とも言えない緊張感が走る.やがて訪れる結果はわかっているのだが.
 現在の時代劇はどうだろうか.確かに大型時代劇は正月だけの楽しみになったが,勧善懲悪の1時間もののテレビ時代劇は,数が減ったとはいえ相変わらず健在である.それでは視聴者は時代劇に何を求めているのか.西部劇と共通な勧善懲悪以外に何かありそうである.それは自分で描いたストーリー通りに話が進むのを確認し,ヒーローはいかにもヒーローらしく,悪役はいかにも悪役らしく振る舞うことにおもしろさを感じているのではないだろうか.時代劇の大きな特徴は愛すべき単純さである.したがって,そこに現れるヒーローもそのキャラクターがわかりやすい人ばかりである.以上の考察をもとに,つぎの問題を考えてみたい.つまり,日本人で時代劇が好きな人は,現在のアメリカを代表する三代演技派俳優(勝手に選んでいる!!)であるロバート・デニーロ,ダスティン・ホフマン,ジャック・ニコルソンはお嫌いではないだろうか(女性を一人加えるならばメリル・ストリープか).彼らに鬘をつけさせて時代劇を演じさせることはできないが,理由はおわかりいただけると思う.またその逆も真ではないだろうか.TSUTAYAで同じ客が「ディア・ハンター」と「旗本退屈男」のビデオを一緒に借りるとは思えない.でも,ロバート・レッドフォード,この人は加藤剛に似ているから,髪さえ染めれば大岡越前を演じることができるかもしれないな?
 話が支離滅裂になってしまったが,ここで時代劇の華である主役以外の出演者に目を向けてみよう.かつての大型時代劇映画の悪役にはそれなりの大物が出演していた.その代表が月形竜之介である.これに対して,テレビ映画ではなんといっても個性的な俳優が多いように思う.金ぴかの着物を着て,役柄は代官でも勘定奉行でも何でも良いのだが,いかにもワルと思わせるところがテレビ時代劇の一つの醍醐味である.そのなかで,すでに故人になってしまったが菅貫太郎,この人は素晴らしい.大物ではないのだが,あの憎々しさは絶品である.ちょうどテレビ映画の狭いセットにうってつけの悪役であった.菅貫太郎が悪代官なら,悪玉のやくざの親分,あるいは悪徳商人は汐路章につきる.あの何とも品のない(失礼)風体,雰囲気は最高である.彼らがいてこそ,高橋英樹,加藤剛,松平健,松方弘樹,里見浩太郎,西郷輝彦が存在できるのである.テレビ時代劇,本当の主役は,見るからにそれとわかる雰囲気を持った悪役を演じている名優達である.
 最後に,この平成10年の5月の末にかつての銀幕の時代劇スター高田浩吉が亡くなった.彼が演じた昭和28年の作品「伊豆の佐太郎」は戦後初の本格的な股旅ものである.少しオーバーな言い方をするとサンフランシスコ講和条約が成立した結果できた映画である.それまではGHQによって仇討ちやこれに類する映画の製作は禁じられていたのだから.映画とともに主題歌が大ヒットしたことはよく知られたところである.少し世代が違うが,高田浩吉は美空ひばりとならぶミュージカル映画の大御所である.歌舞伎の片岡秀太郎の元妻の高田美和は彼の二女で,昭和40年前後に梶光夫と共演の純愛映画でファンの涙を誘ったものである.ところで,美空ひばりの大ヒット曲の「柔」は,かつてテレビ映画として放映されていた.主演は平井昌一だったが,高田浩吉先生が少しとうのたった恋のライバル役で出演していたように記憶しているのだが.私の記憶は正しいのだろうか?

8: ピクニック

 1950年代の懐かしい古き良きアメリカを堪能したい方には,うってつけの映画である.カンザス州の小さな町で,年に一度のイベントの労働祭である「ピクニック」の時の出来事を淡々と描いた秀作である.主演はウイリアム・ホールデンとキム・ノバック.ウイリアム・ホールデンには「慕情」をはじめとして多くの代表作があるが,一番の持ち味は,この映画や「戦場にかける橋」で演じた偽将校のようなやや粗野でバイタリティのある役どころであろう.かたやキム・ノバックは,カラー映画の美しさを存分に表現できるクールな美人である.全くの私見であるが,このタイプの美人は一般的には日本人好みではないと思うがいかがであろうか(ファンの方ごめんなさい).ジェームズ・スチュワートと共演したヒッチコックの名作「めまい」,稀代の美男子タイロン・パワーの代表作「愛情物語」の彼女も素晴らしい.しかしその後のキム・ノバックはどうしたのだろう.やはり彼女は,1950年代のアメリカを代表する女優で,自動車に例えると,テールランプの上に羽根のついた懐かしいフルサイズのオープンカーキャデラックだ.
 ストーリーは単純である.小市民が暮らす平穏な地方都市に,粗野ではあるが男性的な魅力のある男ホールデンがやって来る.そこで起こる男女の心の葛藤を押さえたタッチで描いている.物語のメインの舞台がピクニックであり,キム・ノバックはお祭りの女王に選ばれる.ピクニックの時にキム・ノバックとホールデンがダンスを踊る場面がある.何とも心地よい気だるさがあふれたシーンが素晴らしい.その場面を見て,ふと私は子どもの頃の盆踊りを思い出した.何かいい出会いがあるのではと,胸を膨らませて行った田舎の盆踊りである.残念ながら,映画と違って現実には何も起こらないのだが...
 それにしても,主演の脇を固めるオールドミスの高校教師とキム・ノバックの妹の存在感の大きさは特筆に値する.

9: 妖星ゴラス

 日本のSF映画というと,なんといっても「ゴジラ」が有名である.昭和29年の第一作の「ゴジラ」から最近の「ゴジラVSデストロイア」まで,多くの人を楽しませてくれた.また,ゴジラのライバルの「モスラ」が主演の作品も多く,こちらの方は現在も進行中である.ところで,これらの作品はすべて東宝映画であるが,東宝には怪獣が主人公ではないSF映画の佳作がある.その一つがここで紹介する「妖星ゴラス」である.タイトル通り主人公は妖しい星ゴラス.私はこの作品を「ゴジラ」映画と同様に,子供の時に映画館で見て強く印象に残っている.その後,ずっとみたいと思っていたが,ゴジラほど有名でないために,再放映の機会がほとんどなかったように思われる.そんな私の願いをかなえてくれたのが,1988年の10ヶ月間の米国滞在である.当時ミシガン大学のあるアナーバーに住んでいたが,そこではデトロイトのUHF放送の番組が受信できた.たしか土曜スリラー劇場というようなタイトルで,SFやスリラーのB級映画を放映していた番組があった.新聞のテレビ欄で「Gorath」の文字を発見した私の胸は躍った.これはあの懐かしい「妖星ゴラス」に間違いない.私の予想は当たっていた.
 ストーリーは以下の通りである.日本の宇宙船「ハヤブサ号」が土星の探索に出かけたとき,太陽系に向かってくる妖しく真っ赤に輝く星ゴラスを発見する.ゴラスの燃えさかるおどろおどろした様子は,子供に恐怖心を起こさせるのに十分な迫力があった.ただちに宇宙船の艇長の田崎潤はゴラス探索を命じる.ゴラスは,地球の6000倍の質量を持つとんでもない星であった.そして,そのままの軌道で進むと地球に衝突することがわかる.しばらくして,ハヤブサ号はゴラスの引力に引き寄せられていることを知る.田崎潤は命令する.「逆進ロケットオン」.しかしゴラスの引力はものすごい.そこで宇宙船を反転させ,メインロケットで脱出を試みる.このときにディスプレイ上に映っている宇宙船の姿勢を表す図が,くるっと180度回転したときの様子は今でもはっきりと覚えている.メインロケットの推力でもゴラスの引力にかなわない.
 田崎艇長は続ける.「補助ロケットオン」.これは映画開始後間もない場面であるが,子供心に非常に切なかった事を記憶している.それにしても,田崎潤という人の存在感は大きい.この人は,演技のうまい下手よりも,その風貌が役者としての最大の武器ではなかったのかと思う.東宝のSF映画には欠かせない人であり,防衛庁長官,自衛隊の司令官などの制服組の役どころで脇を固めていた.余談だが,彼は長谷川一夫主演の「関の弥太っぺ」に,仁義をわきまえたやくざであるが,長谷川に一宿一飯の仁義で切られる役で出ていたような記憶がある?
 ゴラスの脅威から逃れる方法は2つしかない.ゴラスを破壊するか,あるいは地球の軌道を変えるかである.どちらも荒唐無稽な方法だが,映画では後者の方法を採る.地球を動かすのに?兆トンの推力が必要で,10のマイナス?乗の加速度が得られる.この数字が物理学の法則に従っているか,運動方程式をたてて議論するのはやめておこう.地球の軌道を変えるために,しがらみを越えて世界の科学者の英知を集めることになる.このあたりにも当時の冷戦構造が反映されている.地球の運命や如何に!!
 またSF映画としては,なかなか出演者がいい.最近は見かけなくなった懐かしい久保明が主人公という役どころである.それから宇宙物理学者として上原謙と若き日の池辺良.池辺良は高倉健と共演の「唐獅子牡丹」シリーズとは違った雰囲気で,インテリのいい味を出している.それから大御所の志村喬と平田昭彦.この2人はゴジラの第1作でも共演している.平田昭彦はゴジラを倒したあの「オキシジェンデストロイヤー」の発明者芹沢博士である.確かこの人は,東大出身の本物のインテリである.それから佐原健二にウルトラマンのイデ隊員も出演している.女優陣がまたいい.理知的な白川由美,それと好対照にバタ臭いお色気がムンムンする水野久美.水野久美もやはり怪獣映画に欠かせない女優の一人である.子供の頃,清楚な感じのスターが多かった中で,私は歌手の松尾和子と女優の水野久美を見るのが何となく気恥ずかしかったことを覚えている.
 このように「妖星ゴラス」には見所がいっぱいあるが,映像もなかなか美しい.とくに,土星のリングや月がゴラスの引力に吸い込まれるシーンは印象的である.また,愛嬌で南極大陸にセイウチのような怪獣も出現する.
 「ゴジラ」とは違ったテイストの国産のSF映画の佳作,機会があれば是非ご覧下さい.

番外編 : 怪獣映画と私

 怪獣映画といえばなんといってもゴジラだが,ほかにも印象的な怪獣はたくさんいる(いた?).つまり,ゴジラが出ない怪獣映画でもおもしろいものはたくさんある.「モスラ」,「ラドン」などはその代表である.もちろんここでいうモスラは,あのザ・ピーナツが出ているオールドバージョンである.また「ラドン」も幼い私の心に恐怖を与えてくれた佳作で,ビデオを購入している.1970年代あたりに,コミカルになってしまったゴジラ映画と比較すると,「モスラ」,「ラドン」などは,大人の鑑賞にたえる?すぐれた作品だ.それから出演機会は少ないがキングコングも彼の故郷の南の島の風情とともに,忘れられない楽しいキャラクタである.それから怪獣の王者Three-headed monsterのキングギドラ.1990年代につくられたキングギドラ出演の映画も面白いが,ゴジラ,ラドン,モスラの3怪獣と対決する「地球最大の決戦」のキングギドラは,テレビの時代劇の悪役と同様にキンキラキンの外見で,「悪」が強調されており,当時としてはすばらしい迫力であった.
 ところで,怪獣ファンの方にはあまり教えたくない情報だが,ゴジラを中心とする日本の怪獣映画の英語版が発売されていることはご存じだろうか.私が海外へ行った時の楽しみの一つが,英語版のJapanese Monster Movie のビデオ収集である.1998年8月現在,以下の作品を収集している.
 「ゴジラ(第1作)」,「モスラ」,「Gorath(テレビからの録画)」,「キングコング対ゴジラ」,「モスラ対ゴジラ(テレビからの録画)」,「南海の大決闘(エビラ)」,「地球最大の決戦」,「ゴジラの息子」,「ゴジラ対ガイガン」,「ゴジラ対メカゴジラ」,「ゴジラ対メガロ」,「ゴジラ(1985年度版)」,「ゴジラ対ビオランテ」,「ゴジラ対キングギドラ」
 日本の怪獣映画だから,英語で見ても状況はよく把握できる.つまり,こんな時英語でどういうのかなという疑問に答えてくれるわけである.佐原健二だったか,マンションのドアを開けて「I'm home」と言い,誰かは失念したが,階段を駆け上って息が切れて「I'm finished.」というシーンがあった.月がゴラスに吸い込まれたり,家が洪水で流れるシーンでは,ともに「Gone.」といっていた.また英語版は,オリジナル版に一部新たに場面を加えたものが多く,出演者も当然英語でしゃべっているので,アメリカ映画という感じがするのが不思議である.また,主役の高島忠夫や小泉博が,実際の声からは想像もつかないような低音でしゃべっているのも楽しい.やはり,当時のアメリカ映画の主人公は低音の魅力なのか.

10: 犬神家の一族

 数多い角川映画の中で,私の好きな作品の一つである.原作者の横溝正史は,江戸川乱歩とは異なった独自のおどろおどろした世界を持った作家である.「八つ墓村」,「悪魔の手毬唄」,「獄門島」ほか多くの作品が映画化されているが,私はこの作品が一番好きである.何といっても出演者が豪華である.金田一耕助の石坂浩二をはじめとして,高峰三枝子,三条美紀,草笛光子,三国連太郎,売り出し中の島田陽子,あおい輝彦,小沢栄太郎,大滝秀司,加藤武,川口恒に川口晶,坂口良子.金田竜之介や小林昭二などはほんの端役である.これだけ見ても大作であることがうなずけると思う.
 製薬で財をなした犬神家の当主三国連太郎が死ぬところから話が始まる.残された莫大な財産をめぐっておこる惨劇を中心にストーリーが展開する.約2時間半の映画であるが,大学院生の時に映画館で見た私には,上映時間は短く感じられた.一人また一人と惨劇が繰り返されていく.完全に映画に没頭していた私だが,途中で理屈なしに犯人が分かってしまった.つまり,このような映画では犯人が最も重要な役で,当然ギャラの高い役者ということになる.出演者を書き並べた上に,これでは答えを言ったも同じではないか.ごらんになっていない方,原作をお読みでない方,本当にすみません.確か当時の映画のポスターに,少し誇張されて描かれていた婦人(犯人が女性であることまで言ってしまった)は,まさに犯人の顔である.それから,この映画の見所の一つとして,奇怪なマスクをかぶった男が登場する.それが誰かということも,残念ながら途中でわかってしまった.つまり,最初に出演者の名前が出るが,ストーリーがかなり展開しても彼?が登場しなかったからである.私は何と皮肉な人間だろう.前出の「悪魔の手毬唄」,「獄門島」などでも同じ理由で,出演者だけで犯人が分かってしまった.これも映画を愛するものの「さが」と思ってあきらめている.
 また,この映画の魅力の一つとして鮮烈な映像の美しさがある.とくに,殺害された被害者の一人が,湖から足をV字型につきだしているシーンは印象的である.この映画の存在など知るはずのない中学生の息子が,「犬神家の一族」といってソファに横になり,その格好をまねたのには驚いた.どこかでそのパロディを見たのだろう.私のような妙な先入観のない方が,夜明かりを落として横溝正史独特の怨念がうごめく世界を楽しまれることを期待しています.

11: 静かなる男

 西部劇のスターはたくさんいるが,ジョン・ウェインはそのなかでも私の好きな俳優の一人である.ほかに,ヘンリー・フォンダ,ゲーリー・クーパー,アラン・ラッド,グレゴリー・ペック,バート・ランカスター,ロック・ハドソンあたりまでは皆さんご存じのスターで,ジョエル・マックリー,ランドルフ・スコット,オーディ・マーフィーあたりの名前がすんなり出るとすれば,あなたは相当な西部劇ファンである.実は,ここでは何も西部劇の話をするのが目的ではない.ジョン・ウエインの「静かなる男」がターゲットである.この映画は西部劇ではない.試合中に相手を殺してしまったボクサーが,アメリカから引き揚げて故郷のアイルランドへ帰る.そこで起こる人情喜劇を詩情豊かに歌い上げた秀作である.アイルランドのすばらしい風景を見るだけでも一見の価値がある.それでは,なぜ他の西部劇スターの名をあげたのか.ジョン・ウェインは西部劇スターであり,ただのスターではない.つまり,他のスターにとって,西部劇は彼がこなせる一つのジャンルにすぎないが,ジョン・ウェインにとってはほとんどすべてなのである.そのウェインが,西部劇以外に残した数少ない名作がこの「静かなる男」である.
 監督はあのジョン・フォードである.したがって,当然の事ながらフォード一家が出演している.燃えるような赤毛のモーリン・オハラ,この人くらい鉄火女の形容が当てはまる人もいないだろう.ジョン・ウェインとモーリン・オハラの恋と結婚生活が物語の中心となる.そこで習慣の違いからオハラの兄ビクター・マクラグレンとウェインがいがみ合う.最後は二人の長い長い殴り合いが見せ場となる.二人の動向を注目していた町の連中は,喧嘩が始まると駅員までが列車をほったらかしにして,喧嘩をネタに賭博を始める.小さな町が二人の喧嘩をめぐってまっぷたつに分かれる.ジョン・ウェインという人は西部劇スターだが,私は彼の本領は素手の格闘にあると思う.「スポイラース」ではランドツフ・スコットとすばらしい格闘を見せてくれた.事実,彼が主演した多くの映画の中で,すばらしいガンさばきを見せる場面は少ないと思う.この映画の相手は,フォード一家の番頭の大男マクラグレンである.喧嘩の結果は,この映画の価値を左右するものではない.最後に,オハラが兄から受け取った結納金の金貨をストーブのようなものの中に捨てるシーンは,彼女のキャラクタならではの演技である.また出演者の中で,マクラグレンが思いを寄せる未亡人がいるが,この人の脇役としての存在も非常に大きい.いかにも未亡人という雰囲気なのである.私は,米国滞在中にこの映画のビデオを見つけて購入したが,日本語版の字幕で粋なせりふに置き換わっていた部分がある.久しぶりに故郷に帰ってきたウェインが,馬車で実家のあったところへ向かう.御者はウェインことを子供の時から知っている.小柄な老人は,大きくなったショーンことウェインに身長を尋ねる.日本語ではこうだ.「あんた身長は2m」,「いや,5cmたりねえ」.これだけのことだが,きっちりと身長をいうよりずっと粋ではないか.またウェインは,葉巻の火を靴の踵でつけるという,例の仕草も見せてくれる.つまり,作り方は西部劇そのものである.女がいて喧嘩,友情があって・・・.この映画には,喜劇的な要素が多いが,観客に様々なメッセージを送ってくれる,ジョン・フォードの観客へのメッセージはきっと「故郷」だと思う.一服の清涼剤のようにすがすがしい気分にさせてくれる映画.本当に美しい風景と素朴な人情を堪能できる私のおすすめの1本である.

12: 忘れじの面影

 題名を聞いただけで見たくなるという映画があります.この映画の原題は「Letter from an Unknown Woman」,つまり「見知らぬ女性からの手紙」ということになります.これを,どうして「忘れじの面影」と訳せるのでしょうか.この映画に主演しているのは,以前に紹介した「旅愁」にも出演しているジョン・フォンティーンです.そこでもこの映画についてふれましたが,今回はもう少し詳しくお話をしたいと思います.
 まず,舞台は1900年頃のウィーンです.ガス灯のある道を馬車が走っています.馬車の中の紳士の話から,どうやら女性問題のごたごたで決闘が行われるらしいことがわかります.決闘をせざるを得なくなったのはハンサムなルイ・ジュールダン.友人がジュールダンに後で迎えにくることを伝えます.そして馬車に戻ってから,友人たちは「どうせ逃げ出すに決まっているさ」といいます.その会話の中で,ジュールダンがどうしようもない女たらしであることがわかります.ジュールダンは,友人の予想通り決闘などするつもりはなく,逃げ出そうと考えています.家に入ると,彼を迎えた執事が1通の手紙を渡します.実は,映画の中でこの執事が重要な役割を演じます.ジュールダンはおもむろに手紙を読み始めます.それがまさに「Letter from an Unknown Woman」だったのです.話は,ジュールダンがまだ若く,才能にあふれたピアニストであった時代にさかのぼります.ヒロインのフォンティーンは,ようやくここで登場します.まだ少女です.近所に引っ越してきたジュールダンに一目惚れした少女の純愛から,彼女の一生をかけた愛の物語が始まります.あこがれ続けたジュールダンとは,数年後ひょんな事から再会し結ばれます.そのとき2人がデートする公園の様子などは,何ともしゃれたタッチで描かれています.しかし運命の皮肉は,そのすぐ後にジュールダンのピアノの公演のために,2人に2週間の別れという試練を与えます.2週間たてば必ず帰ってくると,むなしい約束をするジュールダン.この時点でジュールダンは彼女の名前すら知りません.この後も二人が会うことはあるのですが・・・.映画の最後で,物語はジュールダンの回想の場面から決闘を間近に控えた現在に戻ります.映画の冒頭に流れるフォンティーンの名せりふ「あなたがこの手紙を読む頃,私は死んでいるでしょう」が再び登場します.すべてを思い出したジュールダンが,執事に彼女の名前を聞きます.言葉が不自由な執事は,彼女の名前を書きます.「知っていたのか」,ジュールダンの言葉にうなずく執事.決闘の支度を執事に命じるジュールダン.そこへ友人の馬車が迎えにきます.
 これは1948年の名作ですが,モノクロ作品であることが何ともいえない世紀末のウィーンの雰囲気を醸し出しています.ここでのフォンティーンは耐える女性ですが,女の「さが」を淡々と演じて見せます.少女から娘へ,さらに成熟した貴婦人へと,どんどん美しくなるフォンティーンはすばらしい.それにしても,この映画に忘れられない素敵な邦題をつけた方に敬意を表したいと思うのは私だけではないでしょう. 私の推薦する恋愛映画の傑作,ウィンナコーヒーを飲みながら,ゆっくりご覧下さい.

13: ドラキュラの恐怖

 日本の怪談の代表格を四谷怪談とすると,ヨーロッパの代表格はドラキュラということになる.フランケンシュタインもなかなかいいが,これはモンスタームービーといえなくもない.とにかく,ムードのある恐怖映画という点では,やはりドラキュラがNo.1であろう.ドラキュラは,サイレント映画の時代から幾度となく映画化されており,その人気の高さは衆人の認めるところである.私はアメリカのビデオショップで「映画の中のドラキュラ」というドラキュラ映画のエキスを集めたビデオを購入した.その中で様々なドラキュラが登場するが,何といってもクリストファー・リーのドラキュラが最高である.長身,細面の色白,真っ赤な目(あれはコンタクトらしい),私にとってみれば彼が唯一のドラキュラである.話は変わるが,ずいぶん前に一時スーパーマンがはやったことがある.そのときの主役はクリストファー・リーブ.なまじっかな知識のあるおじさん(私のこと)は,あのドラキュラと勘違いしてしまった.いくら何でも年をとりすぎていると思ったが,長身のクリストファー・リーを思い浮かべて可能性は否定できなかった.
 ここで紹介するドラキュラは,数あるシリーズの中の「Horror of Doracura」で,初めてのカラー作品である.実はこの映画は,子供の頃映画館で見ている.今回それを確かめたくて見直してみた.叔父に連れられて行ったのは場末の映画館だが,当時としては珍しく時々洋画をやっていたようである.ラストで.ピーター・カッシング扮する医者が十字架をかざし,その光を受けたドラキュラが灰に帰する場面は鮮烈に覚えていた.なにせその夜はほとんど眠れなかったのだから.ちなみに友人である本学の英語教師のミーガン氏(彼も相当なマニアである)によると,正しい発音はカッシングではなく,クッシングだそうだ.そういえば,以前にもジョーン・フォンティーンはフォンテインだと教えてもらった.クリストファー・リー対ピーター・カッシング,この対決がドラキュラの見せ場であろう.ストーリーは,まずドラキュラの正体を知ったカッシングの友人が,彼の城に入り込み,あえなく返り討ちにされて吸血鬼になってしまうところから始まる.つぎに,その婚約者の女性に彼の毒牙が及ぶ.さらにはその兄夫婦にまで・・・.ところで,ドラキュラ映画には必ずグラマーな美女が登場する.その理由を私なりに考えてみた.登場する美女は,必ずドラキュラに血を吸われて連れ去られていく.その場面で,ドラキュラに抱かれた美女の首と胸が強調されることはいうまでもない.つまり,グラマーでないと絵にはならないし,また美女を軽々と抱き上げるドラキュラも長身でなければならないという論理である.映画の中で,カッシングがドラキュラの嫌いなものとして,日光,ニンニク,十字架を挙げているが,別の映画でパーティーにドラキュラが登場する場面があった.そのとき,ホールには大きな鏡があったが,ドラキュラは映らない.子供の時は,こんな事でもものすごい恐怖であった.
 少し長くなってしまったが,吸血鬼が好きという方(そんな人はいない?)は,先頃亡くなった漫画家の石森章太郎の「きりとばらとほしと」を一読されることをお薦めする.これは,吸血鬼を題材として,霧・バラ・星をテーマにした3話からなるオムニバスで,私の大好きな作品である.ところで皆さんは,吸血鬼がバラを持つと枯れてしまうことをご存じだろうか.

14: 舞踏会の手帖

 フランス(1937年) 出演:マリー・ベル,フランソワーズ・ロゼー,ルイ・ジューブ 監督:ジュリアン・デュビィビィエ
 主人に先立たれたクリスティーヌは,16歳の時の社交界デビューで初めて行った舞踏会で愛をささやいた男たちを訪ねる.最初の男はすでに死んでいたが,そのことが信じられない母親は息子の死んだ日で暦を止めてしまっている.それを知らされていない観客は,ことのいきさつを理解しようとする.帰るはずのない息子を待つ母親,そして本人が死んでいることを最後にわからせる.観客は,見終わった後やられたと心地よい敗北感を味わう.母親を演じているフランソワーズ・ロゼーが,あの日から20年たったクリスティーヌを見て,息子の花嫁候補の母親と間違えるあたり,誠に心憎い演出である.
 2番目は弁護士だった男であるが,今では暗黒街の顔役でキャバレーの経営者に成り下がっている.久しぶりに訪ねていったクリスティーヌに,金の無心,はたまた夜の女になるために来たのかと間違えるあたり,このジョーという男の現在の生活の荒廃ぶりを伺わせる.上客の男爵を店の女にたらし込ませ,その間に子分に空き巣をさせる計画を立てている.しかも夜中ではなく,夜明けとともに始まる<法律上の昼>に忍び込んだ方が捕まった場合の罪が軽い,その他法律上の知識を子分に授けているあたりが凄い.そのうちクリスティーヌが来た目的を知り,わずかにインテリジェンスがよみがえり忘れかけていた詩を口ずさむ.昔を思い出したのもつかの間,キャバレーに警察が乗り込んでくる.本名がピエールの彼は,「今連行されるのはジョーだ.ピエールは君のところにおいていく.」と言い残して去る.
 3番目は,かつて新進の音楽家で,恋に破れ人生に失望した果てに今は聖歌隊の子供を指導している教会の神父.神に仕える人となった神父アランはかたくな態度でクリスティーヌに接する.「もしその人にあったら伝言は」というクリスティーヌに,「今も忘れていないと伝えてほしい」と告げて子供の元へ行く.
 4番目は,かつてのプレーボーイが,世を捨ててアルプスの山中に山男としてひっそり暮らしている.男もその気になって,山小屋に泊まることになり一時はよりを戻しかける.ところが遭難の報が入り男は去っていく.
 5番目は,大物政治家を夢見て一時は大統領まで目指した男が,今は田舎の町長に甘んじている.クリスティーヌは,その男が召使いの女と再婚する結婚式の日に訪問する.養子である息子はパリで不良をしており,結婚式の最中に帰ってくる.息子とのいさかいの後,男は太った何の取り柄もない召使いが自分に必要な人であることを知る.
 6番目は,もぐりの堕胎医に成り下がった男を訪ねる.男は片目を失い,造船所の横の騒音まみれの住居で,愛が冷え切ってしまった内縁の妻とともに失意の日を送っている.最初クリスティーヌのことがわからず,いつものように引き出しから取り出した器具にアルコールをかけて燃やして消毒をし,堕胎の準備を始める.その後,昔を思い出して一緒に食事をするが,トゲのある妻の言葉に持病の発作が起きる.妻がクリスティーヌを追い出し,男は部屋に鍵をかけピストルを取り出す.失望の果ての自殺かと思わせるが,結局は妻を殺してしまう.
 7番目は,堕胎医のエピソードから休むことなく,トランプが得意だった美容師を訪ねる.今は結婚して子供もいるが,昔通りトランプ手品をして客を喜ばせている.男に誘われて昔と同じホールにダンスに出かけ,過去の思い出がよみがえる.
 そのあとクリスティーヌは再び屋敷に帰る.最後の一人の消息が分かったのだ.なんと湖の向かいの屋敷に住んでいたのだ,ためらうクリスティーヌ,しかし結局友人に勧められて湖の向かいの屋敷に向かう.男は死んでいたが,うりふたつの息子がいた.家が落ちぶれ,明日屋敷を追い出されるという.舞踏会で愛を囁いた彼氏の忘れ形見を引きとったクリスティーヌは,初めての舞踏会に出かける「息子」をはげまして見送る. FIN

15: 旅路

 アメリカ(1958年) 出演:デボラ・カー,デビッド・ニブン,バート・ランカスター,リタ・ヘイワース
 1958年といえば,すでに映画のカラー化がかなり進んでいた時代である.それにも関わらず本作品はモノクロである.デボラ・カー主演で題名が「旅路」,映画を観るまで私はコテコテの恋愛映画を想像していたが,その予想は全く裏切られた.もちろん映画の中で恋愛は重要な役割を果たしている.しかし,この映画はいわゆるヒューマンドラマと分類されるべきであろう.出演俳優がすばらしい.デボラ・カーは控えめな役どころの主演女優である.デビッド・ニブンはこの映画でアカデミー主演男優賞を受賞した.さらに,元祖タフガイ俳優と私が決めつけているバート・ランカスター,かつてハリウッドのセックスシンボルであったリタ・ヘイワースと主演級の俳優がそろっている.出演者は極端に少ないが,ギャラは安くなかったであろうと想像される.
 イギリスの片田舎の小さなホテルの中だけで物語が進行する.あの名作の「グランドホテル」のような立派なホテルではなく,しっかり者の中年女性がわずかなスタッフとともに切り盛りしている家族的な雰囲気の瀟洒なホテルである.このホテルの客はほとんどが長逗留している.退役軍人で,敬意を込めて少佐majorと呼ばれているデビッド・ニブン,貴族の出と思われるプライドの高い母親に連れられた,ナイーブ過ぎて大人になりきっていない娘のデボラ・カー.抜群のプロポ?ションを誇り,かつて花形モデルであったリタ・ヘイワース,その別れた夫で新聞記者と思われるバート・ランカスター.彼は夫人への暴力が原因で刑務所暮らしを経験したらしい.男女の仲の不可思議さ,バート・ランカスターはホテルのオーナーの中年婦人にすでにプロポーズしているにもかかわらず,恨み抜いたはずの前夫人に会うとお互いが今でも強く惹かれていることを感じる.こう書くと恋愛映画のように思えるが,決してそうではない.物語の中心は,デビッド・ニブンが実は経歴を詐称しており,少佐ではなく中尉であったこと,女性恐怖症の裏返しから映画館でセクハラ行為をして警察に検挙されていたこと.それを知ったデボラ・カーの母親が,宿泊者を集めて会議を開き,デビッド・ニブンを無理矢理ホテルから追い出そうとする怖さ,彼にあこがれを抱いていたデボラ・カーの失意.デビッド・ニブンのスキャンダルを中心に,芸達者たちが織りなす人間模様の展開が実に見事である.出演者の一人の元教師が,デビッド・ニブンと詩?について話を交わす場面がある.実際には公立学校しか出ていない彼は,元教師に教養の浅い面を見抜かれてしまう.このちょっとしたエピソードから,イギリスで身分の高い人は必ず私立学校に通うことがわかる仕組みになっている.
 映画の原題は,邦題と全く関係のない「Separate Tables 離れた席」である.最後の場面でその意味がはっきり分かる.小さなダイニングルームに離れて置かれたテーブル.いつものように,客はそこに座って朝食を取っている.その日の朝ホテルを出ることになっているデビッド・ニブンには,誰も声をかけない.ところが,彼のホテル退去にはからずも賛成してしまった老婦人が,良心の呵責から声をかける.すると,せきを切ったようにつぎつぎと他の客が<離れたテーブル>から彼に声をかけるのである.デボラ・カーの母親を除いて...自分の意見が言えない内気な娘が,初めて母親に逆らってダイニングルームに残ることを主張する.そのうち,ホテルを去るデビッド・ニブンに迎えのタクシーがやってくる.彼はそれを断り,女主人がいつものように彼にランチの予定を告げる.観客はこの場面で救われ,暖かい雰囲気を取り戻した<離れて置かれたテーブル>が並ぶダイニングルームを,抜群のカメラワークにより外から眺めることになる.
 デビッド・ニブン,イギリスの香りがぷんぷんする俳優である.早口でも聞き取りやすいキングス・イングリッシュと独特の容貌,これだけでもう完璧である.デビッド・ニブンと「戦場にかける橋」のアレック・ギネス,私は2人に共通した下がり目とひげ,そして何よりも彼らの持つ洒脱な雰囲気に対して,世紀の美女ビビアン・リーが追いかけた名優ローレンス・オリビエよりも強く英国の香りを感じている.

16: 赤いハンカチ

 日活(昭和39年) 出演:石原裕次郎,浅丘ルリ子,二谷英明,金子信雄
 いうまでもなく裕次郎の大ヒット曲を映画化した作品である.「アカシアの花の下で,あの子がそっと瞼を吹いた赤いハンカチよ...」.この作品には忘れられない思い出がある.小学校5年生の時であったか,歌とともに赤いハンカチが大流行した.我がクラスも例外ではなく,同級生の雄さんこと南雄二君は完全に裕ちゃんにはまっていた.担任の井上先生が少し教室に来るのが遅れた時のことである.誰からともなく<赤いハンカチ>を歌い出した.足の短い(失礼)雄ちゃんが,胸に赤いハンカチをさして,ポケットに手を突っ込み,足を引きずりながら口ずさんでいたその瞬間,先生が現れて後ろから拳固でゴーン.悲惨な結末であった.
 この映画は,裕次郎がハードボイルドものに目覚めて,かなり様になってきた頃の作品である.射撃の腕前でオリンピック候補になっている裕次郎刑事は(劇場公開がちょうど東京オリンピックが開催された年であった),警察学校出のエリートで将来を嘱望されている.一方同僚の二谷刑事はたたき上げで,大きな事件を解決して立身出世することを願っている.この映画の二谷は本当にはまり役である.裕次郎と二谷英明,ハードボイルドを中心にいくつかいい作品があるがこれについては別項で紹介したい.話がそれるが,私にとっては同志社大学が生んだ一番の有名人は土井たか子ではなく二谷英明であると思う.また浅丘ルリ子は,このころが絶頂期かもしれない.ルリ子は工場で働くけなげな娘の役どころ.きれいに化粧した顔に少し油が付いている.それが美しい顔をさらに美しく見せている.ところが屋台を引いている親父さんが,麻薬のルートに絡んでいることがわかり逮捕される.そんなことは微塵も知らないルリ子は,訪ねてきた裕次郎にほのかな恋心を抱く.それもつかの間,警察の留置所から護送しようとして,二谷刑事が親父さんを警察署の庭に連れて出たときのことである.突然親父が二谷刑事から拳銃を奪い,発砲しながら逃走する.同僚が危ない,裕次郎がピストルを抜きねらいを付ける.親父に飛びかかる二谷,急所をはずすはずの銃口が必然的に上を向き,親父の命を奪ってしまった.すべての話はここから始まる.警察を辞め,北国の工事現場で暮らす裕次郎,おきまりのパターンである.そこへ訪ねてくる金子信雄の刑事.黒の中折れ帽にトレンチコート,一分の隙もない見事な出で立ちである.晩年の料理番組を担当した時の好々爺とした雰囲気は微塵もない.金子が裕次郎に言う.あの事件の後二谷刑事も仕事を辞め,今はスーパーマーケットを経営する青年実業家になっており(当時はスーパーマーケットの黎明期であった),その美しい妻がルリ子であると.金子は続ける.あの事件には裏がある,そう聞かされた裕次郎は引き寄せられるように横浜へ戻る.ギター片手の流しとして.
 この映画のひとつの見所は,ありそうで現実にはないような場面を再現したセットである.裕次郎とチンピラの乱闘が行われる盛り場とその周辺,この物語の重要なスポットである警察署の庭.中でも,日活映画で頻繁に出てくる「うらぶれたホテル」は,人の出入りがわかるように何故かいつも吹き抜けでまわり廊下構造になっている.そのロビーで女が待つ.小道具まで念入りに用意された小津映画はすばらしい.同じように,勢いがあった頃の日活映画のセットも夢を与えてくれるという意味ですばらしい.今や青年実業家の妻となったルリ子が,自分のことを「わたし」ではなく「わたくし」と言うところは少し違和感を覚えるが,これも愛嬌.蛇足ながら若き日の山本陽子が二谷家のお手伝いさん役で出ていた?ようである.はっきり顔は見えないが,顔の輪郭と声から間違いないと思う.ちょうど小津監督の「東京暮色」で,男に振られた有馬稲子が訪れる場末のバーの女給に,売れる前の北原三枝が出ていたように.
 <赤いハンカチ>は,高校生の頃にテレビで放映された時,母親と一緒に見たことがある.母は7才年長であるためか,不良の裕次郎が嫌いである.自分より若い世代の新人類が嫌いなのは今も昔も変わらない.その母が,黙って<赤いハンカチ>を一緒に見ていた.ラストは,亡くなった二谷の墓に裕次郎とルリ子が訪れるシーンである.何も言わずにルリ子を残して立ち去る裕次郎.その瞬間母が叫んだ.「連れて行ったって!」.この人には名画<第三の男>のラストシーン,“並木道に立つジョセフ・コットンに一瞥もせず立ち去るアリダ・バリ” の芸術性はとても理解できそうにない,と私は確信した.

ショートコメント : パールハーバー

 「パールハーバー」は,軍事評論家(ただし第2次大戦中の海軍が専門)を自称する私としては是非見ておかなければならない映画です.公開当時に見る予定でしたが,余り評判が芳しくなかったので見送りました.昨日テレビで見た結果,やはり思ったほどヒットしなかったわけがわかりました.おっしゃるとおりタイタニックを彷彿させる大作ですが,ラブストーリーの先が読めてしまうという感じでした.わたし自身,パールハーバーには1995年に学会のついでに行き(どちらがついでか曖昧ですが),じっくりと見学してきました.日本人であることを知られたくないという雰囲気のところで,決して日本のおばさんツアーには行ってほしくないと感じました(JTBの営業妨害をするつもりはありません).真珠湾を扱った映画としては,やはり「トラ・トラ・トラ」の方がはるかに作品としてはおもしろいと思います.

友人との私信より : ナベケンとアカデミー助演男優賞

 実は2月に入ってすぐに「ラストサムライ」を見たのでその感想を含めてすぐにメールをする予定でした.ご覧になりましたか.日本人の観客であれば判官びいきを差し引いても受賞間違いなしと思ったはずです.ただThe END のタイミングにずいぶん日米の感覚的ずれがありました.The ENDはもう少し前のクライマックスの合戦の最中がよかったのでは...それとイギリス映画であればトムクルーズの最後は違っていた等々...イギリスはアメリカと違って「第二次大戦中でも艦艇が沈む場合,貴族出身者が多く身分が高い艦長は,逃げ出して命を長らえることなく沈む艦ともに運命をともにした」というようなことが脳裏をかすめました.また,トムクルーズの役は彼でなくてもよかったと思います.余りストーリーを話しすぎると浜村純になるのでやめます.
 誠につまらないことですが私なりに受賞逸した理由を以下のように分析しました.
理由:渡辺謙(以下ナベケンと呼ぶ)の存在感が大きすぎた.トムクルーズがビッグスターでなければ,ナベケンが主役に見える映画であった.したがって,彼の演技は主演男優賞向きであったため.
 ナベケンには大河ドラマの伊達政宗の頃から注目していました.若いのに存在感のある演技で感心していました.少し前の大河ドラマの「北条時宗」では,時宗の父で5代執権時頼を演じましたが,最後に毒を盛られて?死が近づく場面は,顔面を金色に塗り大河ドラマの中で久しぶりに見る迫真の演技でした.したがって,今回のノミネートは当然の結果だと思います.
 次回のハリウッド映画はバッドマンで悪のボスを演じるようです.バッドマンでアカデミー賞は難しいでしょうね.ただ,ハリウッドが日本人に望むのは圧倒的な存在感ではないかと思います.ラストサムライのナベケンを見ていて,私は20年ほど前の映画で仲代達矢主演の「乱」と「影武者」を思い出しました.いずれも仲代達矢の圧倒的な存在感が印象的でした.日本人俳優がトム・ハンクスやダスティン・ホフマンのような俳優と,スケールは小さいがこざかしくうまい演技(受賞を逃した悔しさで皮肉たっぷりです)で勝負しても勝ち目はありません.過去に評価された日本人俳優,「007は二度死ぬ」の丹波哲郎はともかく,三船敏郎,仲代達矢,それから「戦場にかける橋」の早川雪舟はいずれも存在感で勝負をしていました.

ショートコメント : “白い巨塔”雑感

 研究室の同僚の技官(31歳独身)がテレビの「白い巨塔」にはまっているので,質問を受ける可能性のある評論家の立場として,田宮次郎主演の映画(昭和41年度制作?)をもう一度復習し,さらに昭和50年代の同じく田宮次郎主演のテレビドラマと登場人物を対比させて考察した.結果として,「白い巨塔」の配役,特に脇役は絶対に芸達者でなければならない,それと唐沢主演ではぎらぎらした感じが不足で,致命的に身長が低い(特に里見助教授役の江口洋介に比べて)という結論に達しました.ちなみに配役については,

映画版 財前 田宮次郎 里見 田村高広
(田村正和の兄)
2号さん 小川麻由美 鵜飼医学部長 小沢栄太郎
古い
テレビ版
財前 田宮次郎 里見 山本 学
(養命酒の宣伝に出てる)
2号さん 大地喜和子 鵜飼医学部長 小沢栄太郎

 また,西田敏行が演じている財前五郎の義父役は,3つの作品で同じ役を演じた役者を比較すると「いかに大阪人としての下品さを出すか」にかかっていることがはっきりします.産婦人科で大きな収入を得ている彼は,「女の...で儲けた金や....(五郎を教授にするためなら)金に糸目はつけん...」と女性なら聞くに堪えないようなせりふをしゃべります.テレビで観ても不思議なことに彼のみが極端な大阪弁ですね.

同窓会誌への投稿記事より : 映画と私

 世間に映画好きは多い.昨今のレンタルビデオ屋(最近ではDVD屋になりつつある)の隆盛が何よりの証拠である.単に映画を見て楽しむ映画ファンから,評論家よろしくお気に入りの映画のうんちくを語るアマチュア映画評論家までさまざまである.私は後者の一人で少しへそ曲がりな映画ファンである.?映画と私?というタイトルで,しばし駄文を綴ってみたい.
 映画と私と同じ語呂の「王様と私」というハリウッドの名画がある.禿頭のユル・ブリンナー演じるシャムの王様と,その子供の家庭教師デボラ・カーを中心とした物語である.ユル・ブリンナーは,有名な黒澤映画「七人の侍」のリメイク版「荒野の七人」ではリーダー格のクリスを演じていた.1920年にソビエトのサハリン北部に生まれ,パリに出てジプシー楽団の歌手,サーカスの曲芸師を経て演劇を目指した.彼はインテリで,ソルボンヌ大学で哲学を学んでいる.少しシリアスなテレビドラマの常連で,不思議なキャラクターの長塚京三氏も“ソルボンヌ”である.一方のデボラ・カー,最近ではこんなタイプの知的な美人女優はいなくなった.「王様と私」の彼女もいいが,私にとっては「めぐり逢い」(もちろんリメイク版ではない)の彼女こそデボラ・カーその人なのである.この映画を見て涙腺がゆるまない人は心が病んでいる,と本気で信じているほど私はこの映画に惚れ込んでいる.プレイボーイであるケーリー・グラントと会うためにエンパイアステートビルに向かう彼女,ストーリーをご存じの方はこれだけでこみあげるものがあるはずである.ちなみにケーリー・グラントのようなタイプの二枚目は,terriblyにハンサムというようである. かくしてこの映画を観て以来,私にとってニューヨーク=エンパイアステートビルとなった.決して(=キングコング)ではない.
 ニューヨークは今も昔も映画の宝庫である.広大なセントラルパークをリチャード・ギアを気取って歩いてみる,マンハッタン南端のバッテリー・パークを散策する,まさに映画ファンの醍醐味である.バッテリー・パークの近くには「ウォール・ストリート」がある.例の貿易センタービルもすぐ近くである.世界の金融の中心ウォール街は,マイケル・ダグラスだけのものではなく,昔からたびたび映画の題材となっている.アメリカの良心を演じたジェームズ・スチュアートの「我が家の楽園」も確かウォール街を舞台にした物語であった.彼は名門プリンストン大学の出身である.そう言えば,ペーソスという言葉の意味を演技で教えてくれた大喜劇役者ジャック・レモンは,ハーバード大学の出身である.ついつい横道にそれてしまったが,多くの出会いと別れがあったグランドセントラル駅,タイムズスクエア.もちろん,ホリーと一緒に5番街57丁目の「ティファニーで朝食を」とることも忘れてはいけない.セントラルパークの西側を北上して,公園が終わるあたりに名門コロンビア大学がある.かつての学生運動をテーマにしたわかりにくい映画「いちご白書」はここが舞台だったと思う.メインゲートはお化け退治「ゴーストバスターズ」にも登場した.ニューヨークというと,今ではどうしてもマンハッタンが思い浮かぶが,かつてはマンハッタンの南端の橋を渡った「ブルックリン横丁」を舞台としたヒューマンな映画も数多くあった.それにしても原題の「ブルックリンにも木は育つ」を邦題ではすっきり横丁としたところがなんとも心憎い.
 例の貿易センタービルのテロ事件があった2ヶ月後にニューヨークを訪れたときのことである.仕事の合間に観光バスに乗った.観光客はまばらで,バスツアーの参加者もわずか10人あまりであった.もちろん日本人は私一人,ニューヨークに日本人観光客がほとんどいない時期であった.ところがその時のガイドが私にとっては最高であった.年齢は60歳近いとみたが,レーガン元大統領に似たハンサムなアメリカ人.その観光案内の中で,なんとニューヨークを舞台にした映画にまつわる場所を紹介してくれるのである.<へそ曲がりの映画ファン>の私にはツアーチケットがとても安く感じられた.バスの車内で映画にまつわるクイズを出すのである.私もいくつかのクイズに答え,日本の映画ファン層の厚さをアピールした.それにしても彼の映画に関する知識はすごいの一言であった.?この建物のこの部分は,あの映画のあの部分に使われた?などなど.異境の地で,ひとり私は<なにわの映画評論家浜村淳>の顔を思い浮かべていた.コーヒブレイクの時の会話のなかで,このレーガン氏が「蒲田行進曲」の平田満のように,長くハリウッドの大部屋俳優であったことを知った.このままの調子ではニューヨークから一歩も外に出られそうにないので,とりあえず一区切りとしたい.
 冒頭,私が少しへそ曲がりな映画ファンであることを告白した.その理由はいくつかある.まず,海外へ出張すると,映画が撮影された土地を探し求めてさまようのである.トルコのイスタンブールでは迷わず「ロシアより愛をこめて」の地下宮殿を訪ねた.マイナーなところでは,アメリカの南端フロリダキーズにハンフリー・ボガードの影を求めて「キーラーゴ」島の中をうろうろ車で走り回り,キーウェストへ急ぐ家族にしかられた.へそ曲がりの理由その二.国内では入手できないマニアックなビデオの収集.古いところでは無声映画の「フランケンシュタイン」,「ジキルとハイド」,「駅馬車」でブレークする前のジョン・ウェインの上映時間60分位のマイナーなウエスタン,それから子供の頃心ときめかせたH.G.ウエルズの SF「タイムマシーン」等々.極めつけは英語版の「Godzilla」シリーズの収集.子供の時に見たゴジラを英語で見るためである.アメリカでは昔からゴジラはかなり有名で,ヤンキースの<ゴジラ松井>は彼らにすんなり受け入れられるニックネームのようである.上のゴジラの英語をワードで入力してみるとスペルチェックにひっかからない.あらかじめ登録されているのである.
 映画はアメリカの特産品ではない.アラン・ドロンのフランス映画,マルチェロ・マストロヤンニのイタリア映画,日本映画の東映時代劇のことも語りたいが,残念ながら紙面が尽きてしまった.
 最後になりましたが,映画に興味のない方には全く退屈で意味のない駄文に終始したことを深くお詫び申し上げます.

17: あいつと私

 日活(昭和36年) 出演:石原裕次郎,芦川いずみ,轟夕起子,吉永小百合,滝沢修,吉行和子,高田敏江,笹森礼子,宮内精二,渡辺美佐子,中原早苗
 石坂洋次郎の青春小説の映画化である.「青い山脈」より俗っぽい題材で,当時の東京の山の手の暮らしぶりを知ることができる点で興味深い作品となっている.今で言うカリスマ美容師の息子である黒川三郎は,大学にスポーツカーで通うボンボンである.ボリュームたっぷりで若い恋人をいつも連れている奔放なママ,轟夕起子に比べて,チャップリンそのもののような風采のあがらない貧相なパパ,三郎こと裕次郎はそのどちらも大好きである.大学のクラスメートは芦川いずみ,笹森礼子,小沢昭一,吉行和子,高田敏江ほか現在では引退してしまったか超ベテランの俳優が大学生役で出演している.心理学の教授が月の小遣いの額を質問したところ,平均労働者の給料分と平然と答える裕次郎.またその使途について,女子学生からごうごうたる非難があがるが,どこか憎めない黒川三郎は実生活の裕次郎に近いキャラクタではないかと思われる.学生の分際で当時日本では珍しかったベンツで旅行に出かけ,軽井沢のママの別荘に泊まる.今でも庶民には夢のような話をこの映画は疑似体験させてくれる.ママと一緒に現れるなぞめいた大人の女性である渡辺美佐子.三郎との間には暗い過去があった.それを問いただされたからといって平然と言ってのける裕次郎に対し,事実を知ってショックのあまり嵐の中に飛び出す芦川.さらに,重厚な役柄が得意というより,重厚な役しか演じ(られ)ない滝沢修の役柄も興味深い.最後は何とかハッピーエンドになるのだが,明るいストーリー展開の中で様々なことを考えさせてくれる作品である.また,この小説はかつてコミックでも読んだこともあり,大変印象的であった.
 この映画でもっとも注目すべきは女優陣であろう.しかも,私の好きな二人の女優(芦川いずみ,酒井和歌子)が出ている.元来私は「狐顔」より「狸顔」が好きである.ところが典型的な「狐顔」にもかかわらず,芦川いずみだけはなぜか好きである.彼女のキャラクタを要約すると,勉強ができてまじめ,いい加減な男子学生に対して決して妥協しないびりっとした美少女というところであろうか.赤木圭一郎主演の「霧笛が俺を呼んでいる」のラスト近くで,二等航海士仕様の純白の制服に身を包んだ赤木に“ごきげんよう”と挨拶するシーンがある.決して男にべたべたせず汚れ役も演じない,文字通りの優等生女優であった.この後,そのようなキャラクタは成長した吉永小百合に引き継がれる.しかし,吉永小百合が様々な役を演じて大女優に成長したのに引き替え,藤竜也と結婚して引退した芦川は永遠にぴりっとした美(少)女のままスクリーンにとどまっている.少し脇役に話を移そう.重要な役を演じる渡辺美佐子と大学生役の中原早苗,それとこの映画には出演していないが南田洋子の3人は,日活映画の中でいつも似た役柄を演じている.決して品のいい女性ではないが,必ず主演男優とのからみがあり,それでいて絶対に恋は成就しない役柄を演じ続けた女優陣である.日活映画でおなじみの笹森礼子も大学生役で出演している.
 またこの映画には,芦川いずみと吉永小百合姉妹の下の妹として,なんと少女時代の酒井和歌子が出演している.現実には絶対にあり得ないような美人姉妹である.私にとっての酒井和歌子は,東宝のニューフェースでデビューし,その後加山雄三の若大将の相手役を星由里子から引き継いで以来ずっとマドンナである.今もテレビのサスペンスで時々見かけるが,昔とあまり変わっていない美貌とスタイルはファンとしてはうれしいものである.「大都会の恋人たち」という彼女の唯一のヒット曲をご存じだろうか.当時の典型的な好青年タイプの江夏圭介とのデュエット曲で,あれ以来ほとんど歌われることがないので,彼女のファン以外まずご存じないであろう.「二つ並んで寄り添って,ビルの角ゆく影がある...」.いわゆる歌謡曲らしいロマンチック(この表現自体が時代を感じさせる)な曲である.彼女はかわいらしい声を持っているが,歌がうまいとはお世辞にもいえない.当時はやっていたエコーの効果を最高に効かせることによって,レコードの録音としてはまずまずの出来上がりとなっている.
 男優陣について,裕次郎の実の父役の滝沢修の堂々たる風格,小沢昭一の軽妙さ,人のいいパパを演じたチャップリンそのものの風体の宮内精二,それぞれすばらしい演技である.

18: 白扇みだれ黒髪

 東映(昭和31年) 出演:東千代之介,長谷川裕見子,田代百合子,東野英治郎
 著名な映画評論家の佐藤忠男氏が,昔見た記憶からぜひもう一度みたいと書いていた時代劇である.佐藤氏の「勧善懲悪からはほど遠い時代劇」という短いコメントを目にしたときから,いつかは見たいと思っていた.少し勘のいい観客であれば,最初の部分で「東海道四谷怪談」の作者である鶴屋南北が,あまりにも有名なお岩さんの物語のヒントを得た過程を描いている作品であることがわかる.主人公の千代之介が御家人の民谷伊右衛門,その妻が長谷川裕見子演じるお岩.ここでは,本当の四谷怪談と違って伊右衛門が松平家に奉公に出ている岩の妹の石と道ならぬ恋に落ち,やがては破滅に至るというストーリーである.こう書くといかにも安っぽいが,この映画は人の世界の避けがたい運命の皮肉と男女の情念を見事に描いている.最後は,伊右衛門と石が心中によって思いを遂げ,それ見た岩も自殺するという救いようのない結末である.
 この映画では,なんといっても東千代之介のニヒリズムがすばらしい.この人は数多くの東映作品に出演しているが,準主役級の役が多く,失礼ながらこの映画を観るまでこれほどの役者だとは思わなかった.そう言う意味では,大変地味ながらこの映画は彼の代表作ではないだろうか.生真面目な御家人がふとしたことから役職をはずされ,さらに義妹の石を救うために泥沼に足をつっこんでしまうという,大変難しい役を見事にこなしていた.たぐいまれな端正な顔立ちの千代之介が,旗本やくざならぬ御家人やくざを,あくまでも暗くしかも品位を保ちながら演じきっている.それから長谷川裕見子の演技もすばらしい.名優長谷川一夫の姪で,今をときめく2時間ドラマの帝王船越栄一郎の母君である.決して美人ではないが,この人ほど武家の娘や妻が板に付いている女優はいない.そのような彼女の演技は,ニヒリズムにあふれた片岡千恵蔵主演の傑作「大菩薩峠」,大川橋蔵主演の「新吾十番勝負」シリーズで十二分に発揮されていた.また,本当の四谷怪談では伊右衛門に殺される按摩の宅悦に東野英次郎,その情婦役に若き日の赤木春恵が出演している.余談ながら,赤木春恵は美空ひばりの主演映画をはじめ,全盛期の東映時代劇に数多く出演している.彼女の名前は,映画の題名に続いて主役,脇役そして出演者の名前が少し小さくなるあたりに出てくる.彼女の名前を見つけた時,私はヒッチコック探しと同じ気分で映画の中で彼女を発見することを楽しんでいる.
 この作品で,長谷川裕見子はお歯黒で出演している.時代劇の奥方のお歯黒は,その後大衆向けの時代劇が大流行するとほとんど消えてしまった.また四谷怪談は「座頭市物語」の平手造酒,テレビドラマの「非常のライセンス」のニヒリズムで一世を風靡した天知茂主演(中川信隆監督)の「東海道四谷怪談」につきる.新東宝の作品なので現在鑑賞することは難しいが,岩と按摩の宅悦が戸板の裏表に貼り付けられ,それを釣りに行った伊右衛門の竿にかかるシーンは本当に怖い.いずれにしても,この「白扇みだれ黒髪」は,昭和30年代の日本経済の急成長にあわせて,映画各社が大衆受けする娯楽作品を大量生産する直前に咲いた異色の名作である.

19: 禁断の惑星

 原題はForbidden Planet,これを禁じられた惑星ではなく,“禁断の惑星”と訳した担当者のセンスに敬意を表したい.それにしても“禁断の惑星”,何という魅力的な題名だろう.この映画をテレビで初めてみたのは中学生の頃であったと思う.今では,アメリカのビデオショップで見つけたので,ビデオコレクションのひとつに加えている.“禁断の惑星”は宇宙ものSFの古典である.当時の最新鋭の特撮技術を駆使して,誰も見たことがない(当然である)宇宙を,美しい映像によってわれわれに見せてくれた記念すべき作品である.この映画は,別項で述べた“宇宙戦争”とともに,その後のSF映画に大きな影響を与えている.
 レスリー・ニールセンを船長とする宇宙船は,宇宙の遙か彼方のAltair-4という惑星に残された人類の救出に向かった.しかし,到着してみると生存者はモービス博士とその美しい娘の2人だけであった.しかも博士は,一行を歓迎せず一刻も早くこの惑星から立ち去れという.地球の科学とはかけ離れたレベルの知識を持ち,何不自由ない暮らしをする博士.ニールセン船長は,何かとんでもない秘密が隠されているという疑念を持つ.映画の中で知能指数を測定する装置が出てくる.160という高い値を持つ乗組員も博士には及ばない.なんと博士は,Boosterつまり知能指数を上げる装置を持っていたのだ.このあたりが“禁断”の所以かもしれない.やがて,宇宙船が目に見えない正体不明の怪物におそわれる.突破できるはずのないバリアを越えて攻めてくる.鉄壁を誇る博士の住居にも襲いかかる.その正体が実は博士自身であったという結末に,この作品が単なるSF映画ではなく,やがて来る宇宙時代,科学万能主義に対して,人類に警鐘を鳴らしているようにも思える.1956年の作品であるが,CGを駆使した映画を見慣れた若い人には逆に新鮮に映るかもしれない.
 博士を演じたウォルター・ピジョン,堂々たる名優である.この映画のあと,私自身がもう少し成長してからジョン・フォード監督の名作「わが谷は緑なりき(How green was my valley)」観て,あの青年牧師を演じた俳優と同一人物であると知ったときは驚いた.しかしながら,私にとってこの映画でもっとも興味があったのはその娘役のアン・フランシスである.この人には,“禁断の惑星”の前にアメリカ製の連続テレビドラマでお目にかかっている.たしか「ハニーにおまかせ」というような題名の探偵物であったように記憶している.唇の横に色っぽいほくろがある,決して大柄ではないが金髪色白の魅力的な女性であった.テレビドラマの方が新しいので見る順序が逆転しており,さきに色っぽいアン・フランシスを見てから,禁断の惑星のピチピチした彼女を見た.昨今の女性のように,ややもすれば病的とも思えるようなスレンダーなスタイルではない.健康美あふれた肢体を誇張するかのように,彼女が着用しているスカートの丈は,もうこれ以上1mmも短くできないような仕立てであった.当時思春期であった私にとって,彼女はやはり禁断であったのかもしれない.
 余談であるが,この前仕事で米国のサンディエゴに行ったとき,たまたまエジプト人運転手のタクシーに乗ったときのことである.私が日本人だとわかると「ピチピチ」という言葉の意味を尋ねてきた.独断と偏見で,ピチピチはおよそ25才くらいまでの健康的な女性に適用可能と答えた.その時,一瞬“禁断の惑星”が私の頭をよぎった.調子に乗った運転手は,さらに「ムチムチ」,「ムキムキ」はどうだと尋ねてきた.私は,前者は30才くらいまでのグラマーな女性,後者はマッチョな(muscular)男性を指すので注意して使うように警告しておいた.それから,惑星の名前Altairで思い出したことがある.コンピュータによる構造解析でよく使用されるHyper Meshというソフトの開発元は米国のAltair Engineering Inc.である.社長は古典SFの熱烈なファンと見たが,その真偽を確かめてみたいものである.
 最後は少し話の品が下がってしまったが,私の好きな古典SF三部作は,この“禁断の惑星”と“宇宙戦争”,それに“タイムマシーン“である.その中でも,“禁断の惑星”はSF映画独特の美しい映像,未来の科学をイメージさせる電子音など,その後のSF映画のお手本となったことは間違いない.

20: 地下室のメロディー

 ギャングそのものの風貌を持った晩年のジャン・ギャバンと,彫刻のような美貌を持った世紀の二枚目アラン・ドロンが競演した1963年のフランス犯罪映画の名作である.ジャンヌ・モロー,モーリス・ロネ主演の「死刑台のエレベータ」とともに,題名を聞いただけで見たくなる代表的な映画である.ジャン・ギャバンといえばなんと言ってもまず「望郷」である.しかし,この映画についてはあまりに多く語られているので,ここではあえて触れない.ただひとつ忘れられない思い出がある.アメリカに学会で出張し,参加メンバーが海辺のディナーにバスで向かっていた時の出来事である.一人で参加した私は,これまた一人で参加したフランス人の隣の席に座った.フランス料理と日本料理(京料理)がともに見た目に美しい,それに比べてアメリカ料理といえば何でもかんでも皿に盛り上げて品がない,彼らにはハンバーガーがお似合いだ,などといって話が盛り上がり,次に映画に話題が移った.当然大俳優ジャン・ギャバンの名前が挙がり,「望郷」に話が及んだ.アメリカ映画はなるべく原題を覚えるようにしているが,さて「望郷」は?答えはジャン・ギャバンの劇中の役名「ペペル・モコ」であることがわかり,二人で肩をたたき合って喜んだことがひどく印象に残っている.
 さて本題に話を戻そう.ストーリーは刑務所から帰ったばかりのジャン・ギャバンが,小さなホテルを一緒に経営するという希望を持って出所を待っていた妻からの誘いに同意せず,最後の大仕事としてカジノから大金を盗み出そうとする話である.その相棒が若き日のアラン・ドロンである.この大仕事を成し遂げるためには,若くて美貌の持ち主であるドロンの参加が不可欠であった.現在の映画にはほとんど見られなくなった“静かな中に息詰まるような緊張感”を味合わせてくれる.ようやくカジノに忍び込んだドロンが,狭い通風口の中を下にルーレットやバカラを見ながら這っていく.カジノでは,オーナーがなじみの女性客と軽い会話を交わしている.「今日は少し暑いのね」,「季節の変わり目ですから」という会話から,お客さん至上主義のオーナーは換気システムをスタートさせる.すると通風口の中のドロンは,突然の風に苦しめられる.久しぶりにこの映画を見たが,何気ない中に恐ろしさを秘めたこのシーンは鮮烈に覚えていた.また,ギャバンが妻のもとに戻ってきたとき,あるいはギャバンとドロンの会話など,非常に重要な場面で実に巧みに鏡が使われていた.会話している一方は実物,他方は鏡の中という具合である.果たしてギャバンとドロンはうまく大金を奪えるのか?このような映画を見ようという方なら,途中で捕まったのでは話にならないことは先刻ご承知のはずである.
 このころのフランス映画は,ラストシーンからさかのぼって制作している,というのはひねくれ映画評論家である私の持論である.この映画のラストシーンの鮮烈さは言葉に表しようがない.プール一面に浮かんだおびただしい数の紙幣.この映画を見た方は,誰もが(監督に?)やられたと思ったはずである.アラン・ドロンの映画に限ってみても,この3年後に公開された「冒険者たち」,「サムライ」,「さらば友よ」等々.いずれも,映画全体がラストシーンのための伏線であるように作られた作品である,と思っている映画ファンは私一人ではないであろう.

21: 大砂塵

 映画よりもビクター・ヤングの名曲ジャニーギターで広く知られている1954年のハードボイルド・ロマン・アクション西部劇?である.中学時代にギターをはじめた私にとって,当時ジャニーギターを演奏することにあこがれていた.したがって主題曲を先に知り,あとで映画を知った.映画の題名であるが,長い間“Journey Guitar旅するギター”,つまり小林旭のような流れ者の西部劇と思いこんでいた.映画の内容はその通りであるが,正しくは“ジョニー・ギター Johnny Guitar”で,本名ジョニー・ローガンという流しのギター弾き,実は凄腕のガンマンの名前から来ている.こういうと典型的なB級映画ということになる.実は,当時見た映画評論もB級映画(英語ではB class movieではなく B movieと呼ぶらしい:英国人の友人の談)という評価であったが,私はこういうB級映画が大好きである.
 主演はジョン・クロフォード,圧倒的な存在感を持った,恐い大姉御タイプの代表格のような女優である.そのためかジョニー・ギター役のスターリング・ヘイドンの影が薄い.長身で柔和な顔のハンサム,いくつかの映画を見たが,ゲーリー・クーパーのような華がないのでビッグスターにはなれなかった,と自称へそまがり映画評論家は思っている.
 オープニングは名画シェーンと同じく,ジョニーが馬に乗って現れる.砂塵が舞う中に立つ何故かウィーンを意味するビエンナという名の酒場.映画の重要な舞台となるこの酒場のセットが最高である.ジョニーが入った途端に回り出すルーレット.吹き抜けになった酒場の二階に女主人ビエンナは住んでいる.日本の日活アクション映画にでてくる酒場やホテルは,よくこんな雰囲気をまねた造りとなっている.2階から降りてくるシーンを観客に見せるためである.最初の40分程この酒場を舞台に息詰まるような会話が続く.大姉御のビエンナの名せりふに注目という場面である.街の実力者からこの土地を離れるよう脅されたとき“トランクは捨てたわ“,5年前に別れたジョニーから“5年間に何人男ができた?”と聞かれて“あなたの女の数と同じよ”.二人きりになって,三人称で過去の二人の愛を語り合う.やがて昔のように心が通いビエンナがいう“I have waited for you, Johnny. ジョニー待っていたのよ”このあたりになると,あのごつい顔(失礼)のクロフォードが魅力的にさえ見える.それからビエンナの衣装が鮮やかだ.黒,青ネズミ色,黄色とカラフルなブラウス,ワインレッドのドレス,酒場でピアノを弾き,縛り首されそうになった時の純白のロングドレス.焼け落ちる酒場の焔.これらすべてがビエンナの白く,くっきりしすぎた顔と何とも言えないコントラストを構成している.実にすばらしいB級映画である.
 ラスト近く,”Play the guitar. Play it again, my Johnny”,ペギー・リーがハスキーボイスで歌うジャニーギターが流れる.歌詞の内容が映画とぴったり一致している.昔スウェーデンにスプートニクスという,当時最新鋭の電子技術を駆使して宇宙サウンドを売り物にしたギターグループがあった.日本ではベンチャーズほど人気はなかったが,彼らが演奏するジャニーギター.私は高校時代,アドリブ部分を必死にコピーしようとした.エレキギターがむせび泣く素晴らしい演奏である.

22: サムソンとデリラ

 名匠セシル・B・デミル監督の1949年の作品で,スペクタクル史劇の傑作である.はじめて見たのは中学生の頃だったか,その時の印象はとにかく主人公サムソンの強烈な個性であった.ビクター・マチュア,私はこの俳優が大好きである.痛快なB級映画の主人公をつとめる立派な肉体を持った個性派俳優である.最近では,肉体派というと多くの人がアーノルド・シュワルツネッガーの名前を挙げるだろう.当時のビッグネームは,このビクター・マチュアとスティーブ・リーブスで,いずれも史劇が得意であった.後者は最近亡くなったスーパーマン俳優のスティーブ・リーブ氏とは別人である.余談であるが,シュワちゃんもブレイクする前は,その肉体だけを生かして「ヘラクレス」という3流コメディに出演していた.ちなみにヘラクレスは英語ではハーキュリーズである.むかしアメリカのテレビ漫画で「マイティ・ハーキュリー」という番組があった.この方が正しい発音に近い.ビクター・マチュアは名前通りまさにmatureな容貌である.当時マリリンモンローのチーズケーキに対して,彼はビーフステーキと呼ばれていたそうである.まさに,特別に分厚いウェルダンのステーキのような俳優である.ビクター・マチュアについては,多くの評論家が西部劇の名作「荒野の決闘」で演じたドク・ホリディが彼の一世一代の名演技だと評している.それに異論はないが,個人的には余人を持って代え難いサムソンのマチュアの方が好きである.
 共演者がなかなかいい.デリラ役のヘディ・ラマール.アップの時は,「カサブランカ」のイングリッド・バーグマン同様,紗をかけてその妖艶さが強調されていた.英語の発音ではデライラである.しかし,これでは悪女の感じがしないので,邦題ではデリラとしたと私は信じている.もう一つの華,デリラの姉でサムソンと結婚することになっていたのがアンジェラ・ランズベリー.どこかで見たファニー・フェースである.そうだ,テレビの探偵物のジェシカおばさんではないか.それから,この映画の12年後に封切られたエルビス・プレスリーの「ブルー・ハワイ」ではお母さん役にまわっていた.
 ストリーは旧約聖書の中の伝説である.ライオンを素手で倒したサムソンに王が褒美を与える.サムソンは自分との結婚を望むと考えていたデリラが,姉を選んだと知って嫉妬に燃える.結婚式を台無しにしただけでは飽きたらず,サムソンを徹底的に追いつめる.剛勇の兵隊が束になってかかっても倒せなかったサムソンを,デリラは色仕掛けで力の秘密を聞き出して,ただの男にしてしまう.今も昔も本当に女の嫉妬は恐ろしい.捕らえられたサムソンは視力を奪われ,あけてもくれても重い石臼を引かされる.彼のビーフステーキの体型が生かされる場面である.あまりに残酷な王の仕打ちに,デリラの心にサムソンに対する同情が生まれ,ふたたび愛情がよみがえる.壮大な競技場が最後のクライマックスの場面である.異教徒であるサムソンを辱めることをより座を盛り上げようとする王.こびと(midget)の集団にサムソンをいたぶらせる.今では人権に触れるような場面である.このとき実はサムソンの力はよみがえっていた.鞭で打つふりをするデリラの計らいで,競技場を支える支柱のところへサムソンを引っ張っていく.“神よ,今一度力を与えたまえ”,神の戒めを破ってデリラにだまされたサムソンが祈りながら渾身の力で支柱を押す.それを見て王や諸侯,大勢の市民があざ笑う.しかし,やがてわずかに支柱が動き出す.動揺する民衆.競技場の正面にある神殿に建つ像がいい.腹部が火を焚くような構造になっている.ちろちろ火が燃えたまま,神殿が崩れ落ちる.
 この映画の面白いところは単純な勧善懲悪ではない点である.サムソンは目的のためには盗みもする.ジェシカおばさんも,結婚式の席でサムソンを裏切って軍隊の隊長と結婚しようとする.まさに人間の欲,弱さを描いた映画である.この作品は偉大なB級映画である.個人的には,同じくセシル・B・デミル監督の作品で名画の誉れ高い「十戒」より好きである.

23: 連合艦隊


 連合艦隊,なんとノスタルジックで悲しい響きだろうか.連合艦隊といえば,あの戦艦大和を思い浮かべる方も多いだろう.1981年のこの作品は,日本帝国海軍の象徴であった連合艦隊の滅亡までを,史実を追いかけながらも情におぼれることなく淡々と描いた戦争映画の傑作である.連合艦隊は正しくは聯合艦隊と書く.東郷平八郎がロシアのバルチック艦隊を破ったことで有名になり,まさに日本海軍の象徴のようになっていたが,常備艦隊をあわせて連合艦隊として編成されたのは日清戦争の頃である.
 冒頭,純白の第二種軍装に身を包み,悲痛な表情をした海軍のお偉方がぞろぞろと登場する.何やらただごとではない様子.小林桂樹扮する連合艦隊司令長官山本五十六が,黒沢映画の重厚な俳優である藤田進が演じる海軍大臣及川古志郎大将を怒鳴りつける.「やむを得ず,真にやむを得ず...」と言い訳をする及川に「すまないですむか」とくってかかる.三国軍事同盟を認めた及川に対する山本の怒りである.山本は海軍次官当時,大臣の米内光政,軍務局長の井上成美とともに身を賭して三国同盟に反対していた.しかし,海軍兵学校の一期先輩の及川を,山本は本当にあのように怒鳴りつけたのだろうか.もちろん,このあたりの解説は映画の中にはない.
 この映画は,太平洋戦争突入前から大和の沖縄特攻までを,何人かの登場人物の人生をからめて描いている.真珠湾奇襲,ミッドウェー海戦,マリアナ沖海戦,レイテ沖海戦,大和沖縄特攻.また,中井貴一の映画デビュー作でもある.永島敏行,金田賢一,若き士官は全員長身である.さらに,宇垣中将の高橋幸治は精悍で,小沢治三郎中将の丹波哲郎は重厚,大和特攻の第二艦隊司令長官伊藤整一中将の鶴田浩二は本当にいい男である.最近公開された「男たちの大和」ではこの伊藤中将を渡哲也が演じていた.彼の大ファンである岡山生まれの家内は,渡哲也を見たときだけ「ええ男や」と大阪弁になる.いずれにしても,主要な登場人物は皆いい男である.観客の涙を誘うためには,散りゆくヒーローがいい男であることは必須である.自称日本海軍研究家?である私から見ると,実際の人物との差は,少なからずある.
 この映画で特筆すべき出演者は,丹波哲郎と古参の下士官で中井貴一の父親役の財津一郎である.航空機の援護がない大和以下の艦隊がレイテ湾に突入するためには,強力な米空母部隊を北方につり上げなければならない.おとりとなって空母瑞鶴に座乗する小沢司令長官.できるだけ長く敵の攻撃に耐えて撃沈されるのが使命である.絶頂期にあった丹波哲郎の重厚さが遺憾なく発揮されていた.沈没が確実となって総員退去の命令が出る.残った艦長と航海長が蛇輪に体を縛り付けて,一本のたばこを二人で吸うシーンは泣かせる.一方,兵学校を優秀な成績で終えて,恩賜の短剣を拝領した息子,中井少尉候補生に敬礼する財津兵曹長.敬礼の作法として,上官は後で敬礼して先に手をおろすことになっている.「はよ手をおろさんか」,「お父さんこそ」.親子の問答が続く.兵曹長より少尉候補生の方が上官だからと言う父.海軍の仕組みを知っている者であれば涙なしには見られない名場面である.終盤近く,もはや壊滅状態となった連合艦隊.軍令部次長に転任した丹波哲郎の小沢中将が,軍令部総長及川大将に迫る.「この戦争はあなたのやむをえずで始まり,今またやむを得ずで大和に特攻を命じている...」.そして大和の特攻.金田賢一少尉,財津兵曹長の悲惨で崇高な最後は涙を誘う.「男たちの大和」より深い感動を与えてくれたと感じたのは私だけだろうか.
 「連合艦隊」でも「男たちの大和」でも,伊藤整一司令長官は濃紺の第一種軍装に身を包んでいる.海軍士官がもっともスマートに見える出で立ちである.しかし,真実は草色の第三種軍装ではなかっただろうか.伊藤長官は,大和が沖縄に向けて出撃する前に,呉で第一種軍装を下ろしており,現在もきれいな形で残っている.総員退去となった大和に残った司令長官は,自室に入りその扉は二度と開くことはなかった.このときの服装は,開襟ではなくやはり詰めいりの第一種軍装が似合うのである.

24: 恋人よ帰れ Lover Come Back
      ロック・ハドソン,ドリス・デイ,トニー・ランドール

 アメリカがもっとも輝いていた時代,1950年代後半から60年代前半に“ロマンチックコメディ”というジャンルの映画があった.ロマンチックコメディの面白さは,ややもすれば下品になりそうな内容を,ストライクゾーンぎりぎりで勝負するベテランピッチャーの投球術よろしく,ある一線を越えることなくハイセンスな笑いで観客を抱腹絶倒に追い込む点である.今日のテレビドラマでも,男女の恋をコメディのセンスで描いた作品は多い.美男美女が演じる点では同じであるが,決してロマンチックコメディではない.答えは“恋人よ帰れ”を見ればわかること請け合いである.この映画では,とびっきりハンサムなロック・ハドソンと歌手兼女優のキュートなドリス・ディが大人のコメディを見事に演じている.二人の息がぴったりなのは,前作の“夜を楽しく(Pillow Talk)”で証明済みである.この“夜を楽しく”という邦題には,原題を直訳しなかった日本の配給会社の品位が感じられる.
 広告会社に勤めるハドソンは業界きってのやり手.接待に女性を使うことは当たり前で,相手の氏素性を徹底的に調べて好みを探り出し,必ず仕事をものにしてしまう.デイはライバルの広告会社に招かれたばかりで,大きな仕事を取ろうと張り切っているキャリアウーマン.冒頭ハドソンに例の手口で大事な仕事を取られ,顔を合わせる前から最低の男という印象を持ってしまう.そんな二人がふとしたことで出会う.デイがハドソンを野暮な化学者と間違えるところから喜劇に火がつく.ハドソンは仕事に協力させているグラマーな女性の口封じのために,ありもしない製品“VIP”を口にする.VIPをめぐって急接近したハドソンとデイ.当然いい仲になるのだが...
 ハドソンの上司で先代に頭が上がらない二代目社長を演じているトニー・ランドールが絶妙である.藤山寛美に似たとぼけた表情,ハドソンの引き立て役であるが3人目の主役と言っていいだろう.社員たちは社長ではなく,ハドソンに大事な決済を求める.社長は何もしない方がいいのである.ところが名誉挽回のために,社長として初めて下した決断が実態のないVIPへのてこ入れ,大規模な宣伝であった.喜劇がいよいよヒートアップする.それから,ハドソンが様々な女性といろんな場面でいるところを目撃する二人の初老の紳士.彼らのせりふもこの映画の面白さを盛り上げている.忘れてはならないのはデイのファッション.出てくるたびに衣装が替わる,まるで東映時代劇の大御所,市川右太衛門の“旗本退屈男”である.服はカラフルでおしゃれ,帽子は花で飾られている.あの時代のニューヨークでもあんな奇抜なおしゃれはなかったはずである.まさにデイしか着こなせないロマンチックコメディ仕様のファッションでといえる.アメリカ映画史上もっとも甘い二枚目のハドソンと,十朱幸代と同じオーラのかわいらしさを持つドリス・デイ.ちょっとエッチですごくおしゃれ,観客に幸せをくれるロマンチックコメディの傑作である.
 もしこの作品が気に入った方は,ロマンチックコメディのもうひとつ傑作,ロック・ハドソンがイタリアの美人グラマー女優ジーナ・ロロブリジーダと共演した“九月になれば“をぜひご覧下さい.映画は知らなくても主題曲はどこかで聴いたメロディ,9月になると,今でもどこかの放送局で必ずリクエストされている名曲です.

25: 白銀は招くよ (1959,西ドイツ)
      トニー・ザイラー

 イケメンのアスリートが主演の映画は,ジョニー・ワイズミューラーが演じたあの有名なターザンが最初かもしれない.ワイズミューラーは人類ではじめて100mを1分を切って泳いだスーパースター,男性美あふれる美丈夫である.一方,今回の主役トニー・ザイラーは,冬季オリンピックのスキー競技の回転,大回転,滑降の3種目で金メダルを獲得した“歌もうまい細身でイケメンのスーパースター”である.東西分裂まっただ中の西ドイツにこんな映画があったのかと思わせるおとぎ話,稚拙な(失礼)ストーリーながら観るものをハッピーしてくれる映画である.
 冬は素晴らしいスキー場となるアルプスの山中にある駐在所が,全く事件がないことを理由に,町長から閉鎖を言い渡されるところから物語が始まる.駐在所には2人のお人好し,定年前の巡査と未婚の巡査補がのんびり勤務している.ところが町長の娘が巡査補に惚れており,駐在所を閉鎖させないために台所に泥棒が入ったと言ってしまう.その事件解決のために山にやってきたのが,イケメン警部のザイラーである.この警部殿は,頭が切れてスキーの腕も抜群,プレイボーイが玉にキズという設定である.ザイラーは,捜査のためと称して若い12人の美人グループが宿泊している山小屋に泊まろうとする.「12人の娘と1人の男」という平凡な原題を「白銀は招くよ」と訳した日本の映画関係者に大拍手である.女性ばかりの山小屋に入り込むためにザイラーはどんな手を使うのか,めでたく山小屋に入り込んだ後の“恋のさや当て”はお約束通りである.ひときわ目立つサンドラ・ブロック風の美人がヒロインであることは一目でわかる.その後,二人の関係はおきまりの誤解でややこしくなり,やがて本物の泥棒の出現で物語は佳境に入っていく.
 泥棒の一人をやっつけたザイラーがその男と担いで滑降するシーン,ラスト近く,山を下りていく12人の娘を急な斜面の近道を全速力で追いかける.片方のスキーが外れて,1本スキーになっても滑り続ける.やっと追いつき,めでたく誤解が解けて1本スキーのまま彼女を抱き上げて滑っていく.ザイラーのスキーテクニック全開のサービス,「白銀は招くよ」のイケメン警部は,現実社会にどっぷりつかった男達の夢を実現してくれるヒーローである.
 この映画の主題歌は,「雪の山は友達...」ではじまる誰でも耳にしたことがある親しみやすいメロディ.ザイラーは,「白銀は招くよ」によってどれほど世界中にスキー愛好家を増やしたことだろう.日本が誇るスーパーアスリートスター,加山雄三の主演映画「アルプスの若大将」にもチラッと顔を出している.ザイラーの映画のラストは,スキーで彼女を追いかけるのがおきまりのようである.また,この映画で重要な役割を演じる巡査補は,アメリカンロマンチックコメディに不可欠な三枚目トニー・ランドールにそっくり.そういえば青大将の田中邦衛もギョロ目でよく似ている.国が変わっても同じ役回りの役者はいるものである.
 蛇足ながら,この2年後の映画「白銀に踊る」の原題は,色とりどりの風船を君にというようなニュアンスであるが,共演しているヒロインがなんと荒川静香の技で一躍有名になったイナ・バウワー選手.イケメンスキーヤーとべっぴんスケーターのロマンチックコメディ.映画の中で見せてくれる元祖イナ・バウワーは,荒川選手のように大きく反り返って優雅さを売り物にするところがポイントではなく,両足のスケートを一直線にして横に滑る技であることがわかる.
 1960年頃の時代背景だからこそ生まれた映画,良くも悪くも二度とこんな映画が作られることはないだろう.

26: 婦系図
      昭和37年大映 市川雷蔵,万里昌代,小暮美千代

 結ばれぬ男女の純愛と悲恋を描いた泉鏡花の代表作である.戦前から戦後にかけて活躍した小畑実の大ヒット曲「湯島の白梅」を思い出す年配の御仁も多いのではないだろうか.大恩ある先生から厳命で,主税が湯島天神の満開の梅の下で別れ話を持ち出したときのお蔦のせりふ,「別れろ切れろは芸者の時にいう言葉,今の私にはいっそ死ねと...」はあまりに有名である.
 身寄りのない少年時代の主税はスリを家業としていた.祭りの雑踏の中,例によって恰幅のいい旦那の懐をねらうが,見事に見破られてしまう.しかし旦那は主税を警察には突き出さず,家に連れて帰り書生として修行をさせる.家には主税より年下のお嬢さんがいた.家庭の愛情を知らなかった主税は先生一家の愛情と期待に応え,晴れて赤門出の文学士様となる.そんな主税が想いを寄せていたのが,先生に連れられて行った置屋の芸者お蔦であった.主税がお蔦に求婚する.私は字も書けないし,料理もできないとお蔦は困惑するが,主税の言葉に真の愛を確信して承諾する.先生に隠れてひっそりと貧しいながら幸せに暮らす二人.しかしそんな幸せも長く続かなかった.娘の相手にと思っていた先生に,よりによって芸者と一緒になっていることを先生にしられてしまう.追いつめられていく二人,そんな二人をかばう置屋の女将,魚屋の出前持ち.悪人がいないのに悲劇が起こる,こういうストーリーが一番つらい.お蔦役の万里昌代は,座頭市に出演した時の鉄火女とはうってかわってけなげな女を好演している.主税のインテリぶりを帝大卒といわず赤門出というところが,いかにも時代を感じさせる.今では博士様もずいぶん多くなったが,当時は大学の数もわずか,学士様もたいそう価値があった.戦前の理工系の専門書を見ると,著者の欄に工学士某と書かれていることがある.
 婦系図は何度も映画化されているが,戦前というより戦中に製作された,当時の日本を代表する美男美女である長谷川一夫と山田五十鈴共演の作品は,映像の美しさでは劣るものの,情念の深さ,泣かせる映画としてはより素晴らしい.二人が別れの前に想い出のそば屋へ行く.他には店の隅にシルエットで登場する客が一人.二人の会話を黙って聞いていたその客が,恩師の先生ではないかとさりげなく観客に知らせる演出に気づいた時,あの時代の日本人で涙をこらえきれる人がいるだろうか.山田五十鈴といえば小津映画でもすでにお母さん役,テレビ時代になると必殺シリーズのおばさん仕事人のイメージが強いが,この映画を見ると若い時から素晴らしい演技力を持った大女優であることがよくわかる.また,主税の恩人を演じる古川緑波の重厚な演技は秀逸で特筆に値する.娘役の高峰秀子はまだ子供で,10年後に日本初の総天然色映画の「カルメン故郷に帰る」であばずれ女を上手に演じる女優に成長するとは信じられない.2つの婦人系図を連続で観ると涙腺が空っぽになること請け合いである.

27: 島の女
      1957年アメリカ ソフィア・ローレン,アラン・ラッド

 ギリシャの美しい小島にフェードラという名の野性的な美女の海女がいた.彼女は貧しい生活の中で小さな弟を大学に行かせてやりたいと願っていた.ある日海に潜っていた彼女は,イルカの上に少年が乗った古代の彫像のようなものを発見する.ギリシャの海に眠っている古代の宝物と直感した彼女は,それで大金を得て弟の学資に充てようとする.そこで彼女は,たまたまギリシャに来ていた高名なアメリカの考古学者カルダー博士を訪ねる.偽の宝を金持ちに売りつけようとする輩も多いことから博士は相手にしない.しかし,やがて彼女の話に信憑性を感じたカルダーは一緒に食事をして話を聞くことにする.ところが,カルダーの宿敵である大金持ちの財宝コレクターが“いるかに乗った少年”の存在を知ってしまう.美しいエーゲ海を舞台に繰り広げられる財宝探し,恋と大金との間で悩むソフィア・ローレン.バックに流れる主題歌の美しいメロディ.開放的なレストランで2人が食事をする時,ローレンがギター弾きと一緒に素晴らしいハーモニーでささやくように唄う.主題歌は確かジュリー・ロンドンの歌唱によるものであるが,完全にローレン自身が唄っているように思える.少し古めかしい“海洋ロマン”という表現がぴったりの大人に夢を見させてくれる映画である.
 ソフィア・ローレンほど大女優という表現があてはまる女優はいない.アメリカのエリザベス・テーラーとともに,実力風格を備えた歴史的な大女優と私は信じている.以前にある作家が,ソフィア・ローレンのことを踏みつけられたい気持ちにさせる女優と評していた記事を見たことがある.言い当てて妙とはこのような表現を指すのであろう.私はこういうタイプの怖い女優はあまり好きではなかった.しかし,この映画をはじめ,大スペクタクル映画「ローマ帝国の滅亡」での圧倒的な存在感,「ひまわり」での女の深い情愛の表現力を見るにつけて,ローレンはファンというよりも尊敬する女優となった.西部劇の大スターのジョン・ウエインと共演した「失われたものの伝説」は,知る人ぞ知る隠れた傑作である.ずいぶん昔になるが,原題の「Legend of the Lost」を頼りに,この映画のビデオをマイアミのショップで探し当てた時は本当にうれしかった.先日ローレンがSMAPの番組に出演していた.ずいぶん年齢を重ねているはずであるが,基本的に往年の体形に維持していることに正直仰天した.それにしてもイタリア女優はどうしてグラマーが多いのであろうか.私が好きだったジーナ・ロロブリジーダ,「ブーベの恋人」などでコケティッシュな魅力を発揮し,日本にもファンが多かったクラウディア・カルディナーレ等々.その中でも,ソフィア・ローレンは腰がぐっと引き締まり,足は細くバランスのとれたプロポーションで,グラマー女優という安っぽい表現ではなく,素晴らしい肢体を持つ大女優という表現がぴったりである.
 余談であるが,イタリア女優の名前はいかにも響きが色っぽい.先日まで放映していた山田太一脚本のテレビドラマ「ありふれた奇跡」に,かつての人気No.1グループサウンズであるタイガースのメンバーで,いまや名脇役の岸部一徳が出演していた.大会社の部長である彼には女装という趣味があった.共演者で同じく女装が趣味の風間杜夫はまだ見られるとして,岸部の女装はさすがに恐ろしい.その源氏名?がシルヴァーナと聞いて,イタリアの大女優シルヴァーナ・マンガーノを思い出した私は,山田太一氏の罠にはめられたまぎれもないイタリア映画のファンである.
  街のギタリスト

音楽との出会い

 小学校の低学年の時ピアノを習っていた.とはいっても何とかバイエルを修了した程度である.当時の田舎では,ピアノを習うということは男として恥ずかしいことであった.その後,高学年になって市が結成した合唱団に入れられてしまった.町の方の小学校では希望者が多いためにクラス内で試験をしたようである.一方わが校では,もともと音楽ができる子供が少ないので,しかたなく音楽の先生がましな子供を指名したようであった.合唱団では大変な試練が待っていた.週2回,授業終了後町まで出て練習させられるのである.土曜日は歌の練習でまだよかったが,水曜日はソルフェージュであった.必然的に合唱団の中で誰がどこまで進んだか競うはめになった.生まれて初めての競争である.当時かなりつらいものがあったが,成長してからは当時の楽譜を読むトレーニングに深く感謝している.

音楽がちゃんこ鍋であった時代

 中学3年生との時にクラシックギターを買ってもらった.たしか8000円と記憶している.当時としてはそれほど悪いものではなかった.その少し前に国内ではグループサウンズが全盛を迎えており,ギターといえばエレキかフォークが主流であった.インストロメンタルではベンチャーズ,スプートニクス,シャドウズ,サウンズ,アストロノウツ,寺内タケシとブルージーンズ,シャープファイブ...ボーカルグループではビートルズ,ローリングストーンズ,モンキーズ,ホリーズ,アニマルズ,レイダーズ...挙げればきりがない.
 われわれの世代が音楽に関して最も多感な時,日本の音楽はいい意味で混沌としていた.ビートルズ,PPM,ボブディランを聴き,同時に美空ひばり加山雄三,橋幸夫も聞くのである.それにグループサウンズ,和製フォークソング,洋楽のカバーバージョンも共存していた.現在ポップスというと,ほとんどの若者はJポップを聞いているようである.われわれの世代は英米ポップスはもちろんのこと,イタリアのカンツォーネ,シャンソンは聞かなかったがフレンチポップスは聞いていた。まさに音楽の「ちゃんこ鍋」状態であった.したがって選択肢は広く,その時点でどの音楽が好きであったかによって,その後の音楽の志向性が決まっていったように思う.当時の歌謡曲は,演歌調であっても生活に疲れ,恋に疲れた心を搾り出すような歌唱法で絶唱するコテコテの歌は少なかった.あの頃ビートルズを聴いていた若者で,いま天童よしみや氷川きよしを聞いているおじさんおばさんがいるのだろうか.
 高校生の時,しばらくテケテケのエレキギターに手にしていたが,やがてクラシックギターを中心に弾くようになった.教則本を買い,レコードで学ぶ通信教育でクラシックと呼べる曲が少し弾けるようになった.その後,大学生になってアルバイトをして松岡の3万円のギターを買った.

愛器紹介YAMAHA GRAND CONCERT 30C


 現在使っているギターは結婚直後の1983年に購入した.私の技量には過ぎた楽器であると思う.暇を見て家内のピアノが鎮座しているサウンドルームの片隅で爪弾いている.

ささやかな レパートリー

 いつでも弾けるという曲ではない.一度はある程度まで弾いた曲である.たまには映画音楽,ラテン,イージーリスニングも弾くが,簡単な曲であってもやはりクラシックのほうが飽きない.

ルネッサンス,バロック時代(オリジナル作品)
  • ルイス・デ・ナルバエス

  •   牛を見張れによる変奏曲
  • ルイス・ミラン

  •   パバーヌ(2曲)
  • ジョン・ダウランド

  •   アルマンデ
  • ガスパル・サンス

  •   パバーヌ
  • シルヴィス・レオポルト・バイス

  •   ファンタジーホ短調
バロック時代(編曲)
  • ジロラモ・フレスコバルディ

  •   アリアと変奏
  • G・F・ヘンデル

  •   サラバンド
  • J・S・バッハ

  •   二つのガボット
      主よ人の望みの喜びよ
      サラバンド
古典派
  • フェルディナンド・カルリ

  •   ソナタ
      優雅なロンドハ長調
  • フェルナンド・フェランディエーレ

  •   道化師の踊り
  • フェルナンド・ソル

  •   モーツアルトの魔笛の主題による変奏曲
      20の練習曲(セゴビア編)より
      メヌエット(作品11-5,11-6)
      小品(ワルツ,アンダンティーノほか)
  • マウロ・ジュリアーニ

  •   アレグロスピリット(華麗なソナタより)
      小さなソナタ
      プレリュード(悲愴)
      春の日の花と輝く(アイルランド民謡より)
  • マテオ・カルカッシ

  •   漸進的な25の練習曲より
      ナポレオン2世が愛した円舞曲

ロマン派
  • ナポレオン・コスト

  •   華麗なるエチュード
      小品(舟唄,エチュードほか)
  • ヨハン・カスパル・メルツ

  •   ロマンス
  • アントニオ・カーノ

  •   ワルツ・アンダンティーノ
  • シドニー・プラッテン

  •   ひな菊
  • ホセ・ビーニャス

  •   ファンタジア・オリジナル
      夢
  • ホセ・フェレール

  •   タンゴ(3曲)
      夜想曲
  • フランシスコ・タレガ

  •   アルハンブラの思い出
      アラビア風奇想曲
      アラールの華麗なる練習曲
      メンデルスゾーンの舟歌
      マリエッタ(マズルカ)
      マリア(ガボット)
      小品(ラグリマ,アデリータ,夢,エンデチャ・オレムスほか)
近代,現代
  • イサーク・アルベニス

  •   アストリアス
      グラナダ
  • ルイジ・モッツアーニ

  •   ラリアーネ祭
  • ミゲル・リョベット

  •   アメリアの遺言
  • C・ヘンツェ

  •   夜想曲
      緑の木陰にて
  • フリオ・S・サグレラス

  •   はちすずめ
      マリア・ルイサ
  • アラウホ

  •   鐘の音(ショーロ)
  • ビラ・ロボス

  •   前奏曲第一番
  • エミリオ・プジョール

  •   熊蜂
  • G・C・リンゼイ

  •   雨だれ
  • マルサ・グリア

  •   白鳥の歩み
  • ルイゼ・ワルカー

  •   小さなロマンス
  • ビセンテ・ゴメス

  •   悲しみの礼拝堂
  かけ出しエッセイスト(只今売り出し中)
※以下の作品名をクリックしてお楽しみください.